幽体離脱して考える、事実とフェイクの錯綜するキュビズム:フェイクニュースとは何か?

本記事は、電通総研 カウンセル兼フェロー/電通デジタル 客員エグゼクティブコンサルタント/アタラ合同会社 フェロー/zonari合同会社 代表執行役社長、有園雄一氏による寄稿コラムとなります。

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私は、19歳の夏、幽体離脱した。

浪人生だった私は、原付バイクで予備校に通っていた。ある夏の暑い夕方の帰り道、いつもの交差点を右折するため車線変更して、しばらくしたときだった。

物凄い衝撃で、何かが、バイクを後方から突き上げてきた。何が起こっているのか分からない。私は「なんだ?」とバックミラーに目をやる。そこに映っていたのは、黒い大きな塊だった。

次の瞬間、原付バイクは横転し、石油を運ぶタンクローリーの前輪のあいだに引きずり込まれ、地面のアスファルトとの摩擦でバイクが火花を散らしながら、タンクローリーの下を斜めに滑って行く。

そのときに、私は、幽体離脱した。

時間の前後関係は分からない、が、ほぼ同時に、走馬灯を見た。人生の楽しかったことや辛かったこと、祖父との思い出や中学時代の暑い夏の蝉の声、などが駆け巡った。

私は宙に浮いていた。

いや、正しくは、タンクローリーの車体の下を斜めに滑り、原付バイクが散らす火花の中にいた。しかし、同時に、私は空中から、火花を散らす原付バイクとタンクローリーと、その下を滑っている私自身を眺めている。

タンクローリーの後輪が、容赦なく自分の両脚の上を転がっていく。「え!? 嘘でしょ?」。

その後、私はしばらく、空中に浮いたまま、通過したタンクローリーを眺めた。そして、アスファルトに張り付いている自分、それはまるで、新聞紙で叩かれた夏のゴキブリのように、ピクピクと瀕死状態のような自分が存在しているのに、気づいた。

不思議と脚に痛みは無かった。というか、「あれ、脚がない?」と脚の感覚がないのに気づいた。そのとき、空中にいた私は、アスファルトに張り付く自分に吸い込まれ、我に返った、と同時に、「うぉ!痛い!」。両脚に激痛が走った。

脳の認識 = 事実

幽体離脱という現象を他人に説明しても、信じてくれる人と信じてくれない人がいる。

しかし、東京大学先端科学技術研究センターの高橋宏知氏の著書『メカ屋のための脳科学入門 – 脳をリバースエンジニアリングする』では、以下のように、幽体離脱の実験例が紹介されている。

被験者にヘッドマウントディスプレイを装着し、被験者の背中の映像を提示する。被験者に棒を持たせ、前方の人を突かせると同時に、被験者の背中を突く。このとき、背中を突いている様子も視覚的にフィードバックする。これを数分間も続けると、自分が自分を突いているという不思議な感覚に陥る。この状況に混乱した脳は、自分の身体を離脱させることにより、物理的な矛盾を解消しようとする。

被験者の約半数の学生が、幽体離脱したかのような体験をしたらしい。

私は、自分の経験としては、宙に浮いたという事実を確信している。でも、それは気のせいじゃないか? と信じてくれない人もいる。それも仕方ないと思う。なぜなら、宙に浮いている自分の姿は、第三者の他人から「客観的」には見えないのだから。

元朝日新聞記者で、ベトナム戦争のルポルタージュなどで名を馳せた本多勝一氏は、戦争の取材体験から「新聞記者とは何か」「事実とは何か」を再検討させられたらしい。

再検討の結果明らかになったのは、いわゆる事実 —- 絶対的事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのだ。主観的事実こそ本当の事実である。(中略)たとえば、戦場のような対象をみるとき、そこには風景としての無限の『いわゆる事実』があります。弾丸のとぶ様子、兵隊の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木や土の色、匂いなどなど・・・。
(本多勝一著『事実とは何か』からの引用)

ある時間的一瞬における空間的景色、目に映る世界だけでも膨大な量の事実があり、何千枚でも書けるだろう。そのようななかから、記者は自分の目で選択をする。選択をすれば、もはや客観性は失われる。

しかも、記者の目が、あるいは、脳がすべての現象を把握しているとは限らない。いや、どちらかといえば、人間の脳は見たいものしか見ない。

「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」。カエサル(古代共和制ローマ末期の軍人・政治家)の有名な言葉だ。

結局、脳が認識することが事実なのだ。我々が見たこと、聞いたこと、感じたこと、などが事実なのだ。本多勝一氏のいうように、主観的事実こそ本当の事実である。

「誤報」と「フェイク」

「朝日新聞は偏っている、偏向報道をしている」とよく批判される。しかし、朝日新聞に限らず、ほかの報道系メディアも、すべて偏っていると私は思っている。

そもそも、絶対的事実が存在しないのだから、それぞれの主観的視点で報道する。その結果、仮に客観的な視点を心掛けることはできても、絶対的客観報道などは成立し得ない。

偏向報道をフェイクニュースと混同している人もいると思うが、偏向自体は、まったく、問題ないと考える。

問題ないといっても、あなたの主観的事実が他人の主観的事実と異なっているとき、意見の対立などが起こる。でも、それは、お互いを理解するために議論を尽くせばいいと思う。

問題は、客観性(あるいは、偏向性)ではなく、正確性に関して発生する。これは、記者や報道関係者の「能力」と「倫理」に関わることだと思う。

つまり、客観性は問えないが、正確性は問えるのだ。この点をまず、抑えて欲しい。

トランプ大統領の就任式に集まった人数について、「オルタナティブ・ファクト」が問題になった。人数が100人だったのか、101人だったのか、みたいな話だ。数えれば分かる。数え方や算出方法など、基準を明確にして同一基準で測定すれば、人数という物理的に算出可能なものは、同じ認識になるはずだ。

同じ会場に同じ時間に集まった人数について、あなたの脳が認識した事実と他人の脳が認識した事実が異なっているときは、さらにほかの第三者の脳で認識した事実を照らし合わせていくことで検証するしかない。

あなた以外のほかの全員の脳が、たとえば、101人と認識していて、あなたの脳だけが100人と認識している場合は、あなたの脳は101人と認識することができなかった、つまり、誤認している可能性が高い。これは、「能力」の問題だ。

一方で、あなた以外のほかの全員の脳も100人と認識しているのに、全員があなたを騙そうとして101人だったと証言する場合、これは虚偽の発言であり、「倫理」の問題になる。

捏造する。ありもしないことを事実のように作り上げることはダメなのだ。つまり、フェイクニュースとは、脳が認識していないことを、認識したかのように偽って流すニュースだろう。

記者の能力の問題で間違えることはある。これは誤報だろう。
記者の倫理の問題で捏造することがある。これがフェイクだろう。

誤報が多すぎると、信頼性を損なうが、しかし、素直に誤って訂正すれば、一定の理解は得られるだろう。

意図的に捏造する行為は、やっかいだ。反社会的な行為であり、場合によっては、社会的な正義を維持するために法で裁くべきだと考える。

キュビズム的な事実

さて、最初の話に戻って、幽体離脱の体験は主観的事実だと私は確信しているのだが、はたして、ほかの人に信じてもらうには、どうすればいいのだろうか。

つまり、タンクローリーにひかれた時に私の脳が認識した映像を、ほかの人の脳で認識してもらって、誤認でもなく、倫理的にウソをついている訳でもないことを理解してもらうには、どうしたらいいだろうか?

ブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)という技術がある。「脳を使う究極のインタフェース、ビジネス展開は可能?」や「脳とインターネットが接続可能に、南アの大学が新システムを開発」などの記事を読むと、夢や視覚情報、人の主観や感覚などを近い将来、可視化してライブストリーミングすることができるようになりそうだ。そうすれば、私の体験した幽体離脱の映像を、みんなに共有して信じてもらうこともできるかもしれない。

そして、我々の社会は、新たな問題を抱えることにもなりそうだ。
BMI、VR/ARによって、個人の脳が認識した主観的事実や映像を外部に反映できるとすれば、それを扱うメディアが出現することになる。それは、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックに代表されるキュビズム的な事実を出現させる。

いろいろな角度から見たもの、あるいは、いろいろな人間の視点や主観で見たものがBMIで溶け出して、錯綜し融合する。それらを、ひとつのキャンバスで表現する、立体的なメディア、つまり、キュビズムなメディアという現実。

キュビズムな事実が出現し、これを扱うメディアも、今後、出現するとき、そのメディアの信頼性は、社会としてどのように考えるべきなのか? 今度、専門家に聞いてみよう、っと。

Written by 有園雄一
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