世界全体が閉鎖状態に追い込まれたこの春、ニューヨーク・タイムズのフードセクションや同紙が展開する有料レシピサイト「NYTクッキング」の購読者数は上昇傾向にある。しかし、この状況を手放しでは喜べない状態でもある。同紙をはじめ、フードメディアには政治や人種、文化の盗用にまつわる多数βの問題が山積しているのだ。
世界全体が閉鎖状態に追い込まれたこの春、ニューヨーク・タイムズ(The New York Times:以下、NYT)は料理のレシピを集めたセクション「ホワット・トゥ・クック(What to Cook)」のペイウォールを解除した。
これは、コロナ禍で家に閉じ込められ、なにか新しい料理に挑戦しよう(あるいは単に、心温まるソウルフードが食べたいという)何百万人もの読者に対する善意の表れだった。だが同時に、同紙が展開する有料レシピサイト「NYTクッキング(NYT Cooking)」に、新規購読者を勧誘する時機を捉えた戦略でもあった。
「人生が困難であるほど、ニュースが暗いほど、恐ろしいことが起こるほど、我々の業績指標は上昇する」と、NYTクッキングの創設編集者であり、NYTのアシスタントマネージングエディターでもあるサム・シフトン氏は語る。「テロ攻撃? ならばビーフシチューを作ろう。これは皮肉を言っているわけではない。世間に恐ろしいニュースがあふれるとき、安心できる巣に籠もり、美味しいものを作りたいと願うのは人間の性だ」。
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メディアを揺るがした人種問題
多くのメディア企業の経営が揺らぐなか、現在進行形で猛威を振るう新型コロナウイルス感染症の大流行は、創設6年目のNYTクッキングに好況をもたらしている。そしてこのNYTクッキングは、購読者の拡大、ニュース以外の商材開発、収益源の多様化というNYT全体の戦略で重要な一角を占めている。NYTクッキングのニュースレター(週4本のコラムとレシピ集で構成)は400万人の有料会員を擁し、同紙発行のニュースレターとしては2番目に人気が高い。サイトへの月間ユニークビジターも前年同期比で66%増加している。今年上半期、NYTはクッキング、クロスワード、オーディオ製品を含むニュース以外のサブスクリプション(「クッキング」は活字版のサブスクリプションおよびデジタル版の「オールアクセス」プランに含まれている)で、2410万ドル(約25億円)の収益を稼ぎ出した。ちなみに、前年同期は1570万ドル(約16億円)だった。
同時に、昨年5月に起きたジョージ・フロイド氏の殺害を受けて、人種に対する自らのおこないを省みれば、NYTもNYTクッキングもそれぞれの欠点に直面せざるを得なかった。メディアビジネス全般、とりわけフードメディアにおける不平等と多様性の欠如は、いまや業界をめぐる中心的な話題となっている。6月には、コンデナスト(Condé Nast)傘下のボナペティ(Bon Appétit)編集長だったアダム・ラパポート氏が、同誌の人気動画シリーズ「テストキッチン(Test Kitchen)」における包括性と給与格差の問題でスタッフの反発を招き、辞任を余儀なくされた。さらに動画制作の人材流出を受けて、同誌は黒人の編集者と多様な背景を持つシェフたちを新たに採用した。
NYTでも6月に同紙の論説欄に掲載されたトム・コットン上院議員の寄稿(全米で発生したデモの鎮圧に軍隊を投入するように示唆)が物議を醸し、社内の反発を招いた結果、同欄の編集トップを務めるジェームズ・ベネット氏が辞任に追い込まれた。また、フードセクションでコラムを執筆するアリソン・ローマン氏は、あるインタビュー記事で近藤麻理恵氏とクリッシー・テイゲン氏を「名声を利用した金儲け」と批判して(のちに謝罪)、コラムの休載に追い込まれた。シフトン氏によると、ローマン氏はその後自身の有料ニュースレターを立ち上げたが、コラムの再開は断念したという。
メディアにおける多様性の議論が熱を帯びるなか、シフトン氏はフードセクションの圧倒的な「白人支配」への対応を迫られた。同氏は6月に投稿した「編集者からの手紙」と題する寄稿文のなかで、アメリカにおける人種対立を認め、「Black Lives Matter(黒人の生命は重要)」を宣言し、NYTクッキングにおいてもスタッフ、執筆者、レシピの多様性を強化すると約束した。「必要なのは不退転の覚悟と行動だ。途中経過も含めて報告する」と同氏は確約した。
フードセクションは高所得層向けか
ここ数カ月の混乱を経て、当年54歳のシフトン氏は自身が主催する大人気のニュースレターのなかで、食のコラムの執筆に皮肉めいた無関心とほの暗いユーモアを織り交ぜながら、文学の世界で「意識の流れ」と呼ばれる手法を取り入れている。10月に投稿されたコラムを例に取ろう。
「おはよう。西部の山火事は一向に収まらない。コロナウイルスは国中に蔓延している。北中西部はとりわけ深刻だ。大統領選挙を目前に控えて、政治的な緊張が伝わってくる。いたるところで構造的な人種差別の影響が露呈している。一方で、社会的な孤立は、薬物などの過剰摂取やメンタルヘルスの不調を招き、無口で怒りっぽい同居人に喩えられるほどの強烈な孤独感を生んでいる。多くの人が職を失った。それなのに私はと言えば、こうして君たちに、ナスの唐辛子炒め、蜂蜜とリコッタチーズ添え、なんてものを売り込んでいる。ほんとうに? 多分」。
シフトン氏は米DIGIDAYに、このニュースレターとNYTクッキングが、世に蔓延する憂鬱と絶望の緩和剤になることを期待していると語った。「私としては、人々の共感と生活の改善に強くフォーカスしたいと考えている」。
もちろん、シフトン氏には批判もある。「世界の現状に対する、いかにも上位中産階級的な見方だ」。そう指摘するのは、プエルトリコを拠点とするフードライターのアリシア・ケネディ氏だ。「高級食材を調理しながら世界を憂える。このどうしようもなくブルジョワ的なトーンこそ、NYTの料理セクションがアピールしたいものなのだ」。シフトン氏は、批判の声は承知しているという。「批判があるからこそ、できるかぎり多様性を尊重するインクルーシブな環境をつくるため、より一層努力する」と同氏は述べている。そして、「鮭のローストと言えば中産階級に聞こえる」と言われても、NYTクッキングとしては読者の要望に応えつづけるだけだという。シフトン氏いわく、「おいしいことが悪いことだとは思わない」。
願わくは、レストランの接客係、農業や食品加工に関する記事を、NYTのビジネスセクションではなく、フードセクションで読みたいものだとケネディ氏は話す。同氏によると、フードセクションの現状は、どちらかと言えばライフスタイル系の「(高所得者層の避暑地として知られる)ハドソンバレーの山小屋的雰囲気」なのだという。
「問題」の解決に取り組むNYT
こうした課題を踏まえ、NYTのフードセクションでは近く、レシピ担当から報道担当まで「大幅な人員補充」をおこなう予定という。グルメ記者にいたっては、現在の倍に増やす計画だ(NYTの広報担当者は現在の人員についてはコメントを控えた)。ここ数週間で、NYTクッキングはCCアレン氏をシニアビデオジャーナリストとして、ジュヌヴィエーヴ・コー氏をシニアエディターとして採用したが、どちらも有色人種の女性である。
NYTクッキングのジェネラルマネジャーを務めるアマンダ・ロティエ氏は、「我々の報道に潜在的な問題があることは認識しており、この部分のニーズに応えられるようにしたいが、そのためにはスタッフの拡充が必要だ」と語った。
エリック・リヴェラ氏ら、シェフたちも同意見だ。現在、シアトルの有名レストラン「アド(Addo)」のシェフを務めるリヴェラ氏は、NYTのグルメ記事がおよぼす影響は家庭のキッチンにとどまらないと指摘する。リヴェラ氏によると、10年前、同紙に「コリアンダーの香りを石けんのようだと感じる人々がいる」という記事が掲載されると、レストランの客がコリアンダーを抜いてほしいとリクエストするようになったという。また、NYTクッキングにはプエルトリコの伝統的な豚肉料理であるペルニルのレシピがたったひとつしかないのだが、リヴェラ氏はつい最近、そのレシピの「発案者」として元NYTの料理コラムニスト、マーク・ビットマン氏(プエルトリコ系アメリカ人でもない)がクレジットされていることを知り、衝撃で青ざめたという。「カバー曲を歌うのはかまわないが、さきにオリジナルを聞かせてほしい」と同氏は語る。
この問題に対するひとつの解決策として、NYTは記名記事の記名方法を見直して、レシピの取材と執筆を担当した記者だけでなく、レシピの発案者も正しくクレジットされるように変更をおこなった。これは、ネットへのレシピ投稿で起こりがちな「文化の盗用」に歯止めをかける試みでもある。NYTクッキングは、「食」が本質的に政治的なものであることを学習しつつある。たとえば今週(※原文記事は11月2日公開)、NYTがFacebookに開設したクッキングコミュニティにおいて、多くのメンバーが政治活動禁止のハウスルールに逆らい、「VOTE(投票せよ)」と書かれた食べ物の写真を投稿した。
購読者の増加
新しいシェフやライターを採用して執筆者の基盤を強化する一方、クッキングチームは購読者を増やすことに注力している。既存のNYT購読者にNYTクッキングの利用を勧めるのもひとつだが、もっと大きなチャンスは家庭で料理をする人々を新たに取り込むことにあるとロティエ氏は語る。そして「多くのユーザーは検索を通じて我々のサイトにやってくるため、検索機能とSEOへの投資拡大を検討している」と明かした。
さらに、来年はブランディングへの投資も増やすという。NYTクッキングは昨年、初のブランドマーケティングキャンペーンを展開した。また、オフィスでの業務再開がいつになるかは不明だが、NYTクッキングでは物理的なキッチンスペースの設営も進めており、さらに動画制作チームと取材活動全般の拡大も計画している。
「我々にはさらに大きく躍進する可能性がある。その可能性に全力を傾けたい」。最後にロティエ氏はそう語った。
STEVEN PERLBERG(翻訳:英じゅんこ、編集:分島 翔平)