「産業スパイ」っぽい アルバイト に見る、フェイクの本質:「ひとまず、信じない」ことの重要性

本記事は、電通総研 カウンセル兼フェロー/電通デジタル 客員エグゼクティブコンサルタント/アタラ合同会社 フェロー/zonari合同会社 代表執行役社長、有園雄一氏による寄稿コラムとなります。

◆ ◆ ◆

私の人生最初の名刺は「電博堂の木村」だった。ここで、「電博堂」とは、大手広告代理店を表す架空の一般名詞だと思って欲しい。「電博堂の木村」といっても、もちろん、私は、その電博堂の社員になったこともないし、実名は「木村」でした! という事実もない。つまり、ある意味で、私は電博堂の社員を偽って装い、しかも、「木村」という偽名を名乗った訳だ。いま風にいえば、フェイクである。

私は、「電博堂の木村」だった

もう時効だろうから、話してしまうが、それは学生時代のアルバイトだった。「市場調査員募集中! 1件あたり2500円〜5000円。おいしい仕事があるよ」という知人の紹介に釣られて、私は履歴書を持ってスーツで身を包み、面接を受けに行った。

行った先は、渋谷の市場調査の会社。推論や数学、空間認識問題などIQテストみたいな試験を受け、20分程度の面接で、「君、いいね。採用!」とその場で採用が決まった。そして、「ところで、今日、このあと、時間ある?」と、軽いノリで聞かれたのを覚えている。学生時代、そもそも、基本的に授業に出席しないタイプだった私。もちろん、平日の時間は空いていた。

「空いてるんだったら、調査に同行してよ。いい? いいよね。じゃ、30分後に出るから」と、その面接官に言われた。「え、いや、まぁ、いいですけど」と、私は戸惑いつつも、面白そうだなと思った記憶がある。その後、彼は続けた。

「あっ、そうか、名刺がいるな〜。えーと、そうだ。辞めたヤツの名刺が残ってたな」と言って、デスクの引き出しをゴソゴソと探しはじめた。そして、出てきた名刺が「電博堂 第二調査部調査員 木村〇〇」という名刺だった。

あとから知ったのだが、その会社は、きちんとした契約のもと、電博堂の下請けをやっているらしかった。その面接官も電博堂の名刺を持って仕事をしていた。私は自分の名前の名刺が出来るまで1週間ほど、「電博堂の木村」として調査対象先の企業を回って仕事をしたのだ。それが、私の人生最初の名刺だった。

多くの人はわかっていた

余談だが、私が担当した調査は主に、メインフレームコンピューターに関する調査。調査票を持って訪問する先は、大手企業の電算部やシステム部で、部長クラスの人にアンケート調査をしていた。アンケートをするために、当然、コンピューターの構造やソフトウエアの名前などを学んだし、市場調査のノウハウについても、そのバイト先で叩き込まれた。

そして、事の真偽は分からないが、そのほとんどの調査は、ある米国大手ITベンダーからの委託らしかった。が、しかし、そのITベンダーの名前を一切語ってはいけないことになっていたし、私自身、電博堂の社員でないことも、その調査会社が本当は電博堂ではなくて、渋谷の市場調査会社であることも、明かしてはいけないと指導されていた。

「いいか。お前は電博堂の2年目の社員だ。何か聞かれたら、そう答えなさい」。

実際、その仕事は徹底していて、名刺の住所も実在する電博堂の当時の住所で、そこに記載された電話番号にかけると、「はい。電博堂第二調査部です!」とアルバイトの女性が答えてくれる。電博堂のロゴの入った調査票を電博堂のロゴの入った手提げ袋に入れて、電博堂のロゴの入った包装紙で包んだウイスキーを手土産に持って、電博堂の名刺を使い、私は各企業を回っていた。唯一、違ったのは、ホンモノの電博堂の名刺には、透しのロゴ模様が入っているらしく、私の名刺にはそれがなかった。

いまから思えば、どう見ても学生の私が、スーツを着て電博堂の名刺を持っていたとしても、おそらく、多くの人が私はアルバイトだとわかっていたと思う。なにせ、相手は40代〜50代の部長クラスの人たちだ。少し怪しいと思われていたのではないか。それでも、そのバイト先では、電博堂の社長の名前や経歴、〇〇という有名なクリエーターが〇〇ビールのあのCMを作ったなど、電博堂に関する知識を教え込まれ、客先で昨今の広告業界事情や電博堂に関する話、あるいは、社会人としての他愛ない世間話などにも対応できるように仕込まれていた。

「なりすまし」から得た教訓

そもそも、本当に、その米国大手ITベンダーからの発注を電博堂が受けて、その市場調査会社に業務委託していたのかどうか、いまとなっては、疑問もある。スパイの厳密な定義は分からないが、コンピューター業界の「産業スパイ」だったのかもしれないと思ったりもする。

しかし、私は、この仕事を通して多くのことを学ばせてもらった。いまでも、本当に感謝している。コンピューターの知識は、その後にGoogleなどインターネット業界への扉を開いてくれたし、市場調査の知識は、統計学やデータサイエンスなどへの関心を高めた。そして、いまは、電通総研と電通デジタルの名刺を持たせていただいているが、これも、あのアルバイトのお陰で、広告業界の素晴らしさを垣間見たのが契機になったと思う。

「きちんと調査をしないと分からないことがある。個人的な意見や世間の常識、あるいは、テレビや新聞で報道されていることも、正しいとは限らない」。

その調査会社の先輩から何度も言われた。「オレたちが実際に足を使って情報を集めるから、ヒット商品の企画や面白いCMが出来るんだ」「自分の目と耳で、直に情報を集める。相手の目を見て話さないと、手に入らないナマの情報がある」と。彼らなりのプロ意識を持って仕事をしていたと思う。

自分の目で見て、はじめてわかることがある。マスメディアの情報や世間の常識、噂話などを信じるな。市場調査会社の先輩たちから学んだことだ。そして、自分のなりすまし経験から、目の前にいる人が、どんな企業の名刺を持ってどんな名前を名乗っていても、鵜呑みにしてはいけない、ということも学んだ。社会とは、そういう側面があると思った。

養老孟司氏と押井守氏

ところで、話は変わるが、『バカの壁』で有名になった養老孟司氏の本で『唯脳論』(ちくま学芸文庫 1998)というのがある。20年ほど前に読んだのだが、私はこの本に大きな影響を受けた。簡単にいえば、世界を創り出しているのは私たちの脳である、ということだと思う。「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」と『唯脳論』に書かれている。

この連載の前回の記事で、押井守氏の『ひとまず、信じない – 情報氾濫時代の生き方』(中央公論新社 2017)に共感する部分が多いと書いた。特に、メディアの信頼性を考えるうえで、押井氏のスタンスは重要だと思っている。

誤解と批判を恐れずに私の意見を簡単に書くと、「そもそも、テレビや新聞などのメディアの情報を信じてはならない」ということだ。それは、もちろん、ネット上の情報も同じだ。なぜなら、テレビや新聞、ネットの情報も、ヒトの作り出すものであり、ヒトの脳の投射に過ぎないからだ。

押井守氏も唯脳論の立場に立つと表明したうえで、この世界のすべては、ただ自分の脳が認識した世界に過ぎない、と書いている。そして、ヒトの脳はこの世界の現実をバーチャルに理解しているに過ぎない、「つまり、ある意味では僕らの接する情報のすべては、脳が知覚しているだけという点でいうと、はじめからフェイクなのだ」と。

もちろん、乱暴な物言いだとは思う。テレビ局や新聞社が流している情報がはじめからフェイクなんてことはない。そんな意見も聞こえてきそうだ。だが、プロの記者も人間である。人間の能力を超越して、ありのままの現実に迫ることはできないだろう。

フェイクとリアルの境界

「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」と、ユリウス・カエサルは言ったらしい。おそらく、それは、プロの記者も同じであろう。そして、さらにいえば、そもそもヒトの視覚の限界が、ありのままの世界を見させてくれないはずだ。ロンドン大学で教える神経科学者のボー・ロットは、『脳は「ものの見方」で進化する』(サンマーク出版 2017)で、次のように書いている。

「光とは、人間の目に見える、ごく狭い範囲の電磁波のことだ。電磁スペクトル(存在するすべての電磁波の周波数)のなかの、ごくごく一部にすぎない。光にはある一定の波長があり、目の網膜と、脳の視覚野がその波長を感知する。紫外線や赤外線は、人間の目には見えない光だ。人間が感知できるのは、周りに存在する電磁波のごく一部だけだ」(p76)

そして、以前、ネット上で話題になったドレス論争(人によってドレスが異なる色に見えるという話:参考記事)を引き合いにして、「私たちが見ているのは、脳がつくり出した主観的な現実だ。1枚のドレスの写真をきっかけに、みながそのことに気づいてしまった。(中略)『ありのままの現実を見ている人なんて存在しない!』と。」(p42-43)

押井守氏は、自分が認知している世界が本当にそのまま存在するのかどうかわからないし、わかったとしてもそれを他人と共有することもできないと吐露し、「僕らは『マトリックス』や『トータル・リコール』の世界のように、本当はすべて夢を見ているだけなのかもしれない。そして仮にそうだったとしても、それを確かめることはできないのだ。夢の中の知覚のみが僕らのすべてであるならば、夢の外のリアルに触ることができないからである」と書いている。つまり、虚構と真実、フェイクとリアルの境界すら曖昧で、ヒトの脳は知覚することができないというスタンスだ。

イスラエル人のジョーク

私は、今年の5月後半から6月初旬に、フィンランド、エストニア、イスラエルに出張した。この3つの国はそれぞれ異なる特徴がある。フィンランドは「World Happiness Report 2018」で世界1位になっている、エストニアは電子政府が有名で、イスラエルは「Start-up Nation」という本が出ていて、シモン・ペレス元大統領が前書きを寄せるほど、国を挙げてスタートアップに力を入れているようだ。

私は、これらの国に以前から興味を持っていた。そのため、どんな国なのか自分の目で見たいと思ったのだ。現地に行き、自分の目で見て、現地の空気を吸って、体感したいと思った。「電博堂の木村」として学んだように、ある意味で、市場調査をしたかったのだ。フィンランドの話も、エストニアの電子政府も、イスラエルの経済発展の様子も、マスメディアなどを通して情報は手に入る。しかし、それを鵜呑みにするのではなく、ひとまず、保留して、自分でそれぞれの国を感じてみる。感じてみて納得できることを信じる。そういう気持ちで、出張の旅に出た。もちろん、私の人間としての知覚の限界は認識しつつも、「感じてみることでしか、信じることはできない」と考えているからだ。

出張の旅の詳細はまた別の機会に書くとして、イスラエルで面白いことを体験した。イスラエルではテルアビブとエルサレムを訪問したのだが、その両都市ともとても治安が良く、これまでの自分のイメージが間違いだったと気づかされた。マスメディアの報道などを通じて、中東は危険な地域であり、イスラエルも敵国に囲まれたとても治安の悪いエリアだと勘違いしていたのだ。

テルアビブの繁華街では、深夜12時を過ぎても普通に人が歩いているし、レストランやバーも遅くまで営業していて、まったく危険は感じなかった。宗教的な街、エルサレムも、その宗教的に争っている聖地というイメージとは裏腹に、とても平和な観光地だった。現地のイスラエル人の話では、どんなミサイルが飛んできても最新鋭の技術で撃ち落とすことができる。だから、テルアビブは世界で一番安全な街らしい。エルサレムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地であるからこそ、そこにミサイルを撃ち込む人はいないし、エルサレムのなかで発砲などもない、とのことだった。また、イスラエル人は、外部と争ってきたからこそ、イスラエル人同士で争うことは少ないのだ、と。どちらかといえば、内部の小さなことには目をつぶって、一致団結しようという力学が働くのだ、と。

エルサレムを終日観光して、帰りのバスに乗り込む前に、観光案内役のイスラエル人が語ったジョークが印象的だった。テルアビブもエルサレムもとっても平和で、印象が変わったと私が話すと、彼は言った。

「Now you know what CNN is telling about. It’s fake news!」(笑)

「CNNが何を伝えているかわかっただろう。フェイクニュースだ!」という感じだろうか。もちろん、地域によっては危険な場所もあるのだと思う。でも、マスメディアの報道は、必ずしも真実じゃない。わかってくれて、ありがとう。そんなニュアンスを彼の表情から感じた。彼らは、ある意味で、平和で幸せなんだと、私は感じ、信じることができた。

「ひとまず、信じない」スタンス

メディアの信頼性、これは、私が関わっている電通総研のテーマのひとつなのだが、メディアの信頼性とは、結局、感じることなのではないかと、私は思っている。テレビや新聞、ネットなどの情報が信頼できるかどうか。どんなに論理的な記事でも、どんなに証拠を並べられても、なんか嘘っぽいなぁと感じることもある。偽りの情報なのか、間違った情報なのか、即座に判断する材料を私たちは持ち合わせていないし、後から検証することも稀だ。そうすると、直感的に、信頼できるかどうか、私たちは、それぞれの感受性で感じ取っているのだと思う。

7月26日、法務省はオウム真理教の麻原彰晃元代表をはじめ、教団元幹部13人の死刑囚の死刑執行を終えた。私は、自らの直感を信じて物事の信頼性を判断するのが大事だと思っているが、その一方で、なんであれ盲目的に信じるのは危険だと思っている。オウム真理教の事件、あるいは、戦時中の日本やナチスドイツなどの悲惨な歴史も、盲目的な信者や国民という共通要素があるようだ。

メディアの信頼性についても、似たようなところがあると思うのだ。国家権力の監視や反権力は大事なことだと思う。しかし、批判的な検証や自己否定なしに、盲目的に反権力を振りかざしても、一般の読者はついてこないだろう。記事や番組を制作する側も、それを消費する我々も、直感的に判断しつつも、まずは、「ひとまず、信じない」。押井守氏の、そのスタンスが大事だと私は信じている。

Written by 有園雄一
Photo by Shutterstock