匿名性を保証する代わりに本音を語ってもらう DIGIDAYの告白シリーズ。今回は、Facebook元幹部にWatchを機能させる試み、ときに商品の必要な改善を阻むFacebookの社風、そしてそれがFacebookとパブリッシャーとの関係に及ぼす影響について、話をうかがった。
Facebookは動画プラットフォームへのイメージ転換を目指しているが、道のりは決して平坦ではない。実際、ユーザー行動を根本から変えようと、商品と戦略の変更を幾度となくくり返している。だが、そんなFacebookにすべてとは言わないが、多くを賭けているデジタルパブリッシャーのなかには、さらに険しい道を進むことを余儀なくされているところもある。
匿名性を保証する代わりに本音を語ってもらう DIGIDAYの告白シリーズ。今回は、Facebook元幹部にWatchを機能させる試み、ときに商品の必要な改善を阻むFacebookの社風、そしてそれがFacebookとパブリッシャーとの関係に及ぼす影響について、話をうかがった。なお、読みやすさと記事の長さを考慮し、発言には多少編集を加えてある。
この記事の内容に関し、Facebookはコメントを差し控えたいとしている。
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――Facebook Watchはいまのところ失敗作?
Watchについては、はじめたときは本気でプレミアムな場にするつもりだった。長時間視聴という新たなトレンドがここからはじまる、と考えていた。従来のナラティブの形を変えて、Facebook上で動画をさまざまに見られるようにしたかった。フィードをスクロールして動画クリップをチェックし、Watchではフルレングスのエピソードを視聴する、というように。実際、うまく行っていたものもある。『Ball in the Family(ボール・イン・ザ・ファミリー)』や『Red Table Talk(レッド・テーブル・トーク)』はつねに話題に上がっていたし、安定して10分以上の視聴時間を獲得していた。
――テレビと十分に比較できる数字だ。
Facebook時代、私が不満に思っていたのがそれでね、何かというと、Watchをテレビのように語らないとならなかった。みんなテレビと比較したがっていたからだ。たしかに、『Tom vs. Time(トム vs タイム)』は、ケーブルネットワーク番組のFacebook版に近い。でも、我々にはパフォーマンスデータを公開するつもりもなければ、することもできなかったし、それがクライアントと直に相対する多くのスタッフの手かせになっていた。
――当時はまだそういうデータがなかった?
1年、いや1年半かけて、Watchはこれまでとは違うものだと、人々に説いてきた。「これはプレミアムな場です。インストリーム広告の場なのです」と。でも、プレッシャーがますます高まっていき、結果、方針転換が起きた。すべての動画をWatchで流せるようにしたんだ。いわば、それまで貼っていたバンドエイドを自らはがしてね。はっきり言って、それまで我々が市場で築き上げてきたナラティブの形に矛盾しているとしか思えなかったよ。
Facebookでは、多くのことが結局、個々に目標を立てて、その達成度合いによってボーナスが決まるという事実に行き着く。Watchでも、視聴時間が伸びたという結果を出さないとならないのか? なるほど、だったらみんなに解放すればいいさ、というわけだ。
――それによって、Facebook Watchの戦略・方針にどのような影響が?
もともとは、エクスクルーシブな番組を流す、という方針だった。その戦略・方針に沿って、リッキー(ヴァン・ヴィーン氏)はすべてをお膳立てした。なのに、私らがそんな有意義な社会的交流のテーゼを発表したとたん、すべてが一変。今度は、インタラクティブなFacebook独自の番組を見つけないとならなくなった。ライヴの要素を含み、TVにはないインタラクティブな要素のあるものをね。
――Facebookには、うまく行かなければ、すぐさま手を引くか、完全に切り捨てる、という歴史がある。それもこれも、さきほどあなたが言ったように、半年ごとの目標達成に重きを置く社風のせいだと?
社風は大きな要因だ。あの会社の何が新しいか? 覚えてるだろ、エンジニアは自分が取り組みたい仕事を選べる。ザックがたとえば、ライヴが最優先と言えば、その瞬間から全社的にライヴが中心になる。で、エンジニアはみんな、その新しいことをやりたがる。既存商品の改善といった、土台作り的な地味な仕事はやりたがらない。
あそこには、とにかく何か新しいことを話さないと、という空気がつねにある。特に、幹部が壇上に立つときや、一般社員でも業界のイベントでプレゼンをするときには、新しいことを喋らないとならなかった。でも、果たしてそうなのか? 私には疑問だね。それよりも、何かを改善することを話題にするべきじゃないのか?
――Facebookとパブリッシャーとの関係は、よく言ったとしても、不安定とされる場合が多い。だが、それに対するFacebookの責任は?
Facebookが悪者で、めちゃくちゃにしている張本人だとするコメントは、よく目にしている。でもある意味、最近はずっと、パブリッシャーの影響力の高まりが時代を動かしてきたとも思っている。いや、Facebookを貶める陰謀があると言っているわけじゃない。でも、Facebookが出てくる前から大きなコンテンツ界は存在していたし、Facebookが登場して、ひとつのフィードにコンテンツが凝縮されているほうがいいとユーザーが判断した結果、その半分は消えていった。だから、(Facebookのトラブルの数々について)文句を言うパブリッシャーがいるとは思わない。Facebookが落ちれば、彼らはそれに乗じて上がれるわけだから。
――Facebookは、常にパブリッシャーの利益を考えてくれているわけではない、という不満を耳にする。実際、Facebookは明らかにFacebook第一主義だと断言する者もいるほどだ。両者の関係については?
パブリッシャーへの然るべき配慮がなかったというのは、たしかにFacebookが犯した過ちのひとつと言える。パブリッシャーはつねに二の次だったし、その姿勢はパブリッシャーとじかに向き合うチームにしてみれば、つねに不満のタネだった。あそこには、社のためにコンテンツを取ってくるチームがいる。彼らは、VICEやNowThisといったメディアや、インフルエンサーに営業をかけ、コンテンツをFacebookに載せて、いくつかある収益モデルを試してもらえるよう口説く。
でも、その一方で、有意義な社会的交流に関する決断を下す者もいる。で、それが下った途端、まさに鶴の一声で、それまでの全ビジネスが切り捨てられる。Facebookにいた当時、私らはブランドに儲けさせてもらっていた。だから、コンテンツがそんなにも大事なら、パブリッシャーを喜ばせるよう、もっと努力するのが筋だと、普通は思うだろう。ところがその反対でね、当時はそれこそ毎週のように、悪い報せをパブリッシャーに届けている気がしてたよ。
Sahil Patel(原文 / 訳:SI Japan)