多くの企業は、全員がリモートな存在になるという新しい事態に、「過剰なほどのコミュニケーション」を命じるという対応に出た。最初の数週間はそれが役に立ったが、ある人にとってはそれがいま、正直な話、eメールやSlack(スラック)、あるいは普通の電話で済むところまで、止まるところのないビデオ会議の大洪水となっている。
広告エージェンシーTBWA/シャイアット/デイ L.A.(TBWA/Chiat/Day L.A.)のプレジデントを務めるエリン・ライリー氏にとって、これはこの日9回目のZoom(ズーム)会議だった。少なくとも同氏はそう思っていた。「なにもかもがボヤけてきた」というライリー氏は、娘たちと夫がいるロサンゼルスの自宅で仕事をしている。
Zoomの利用は、現在の状況の広範なスキームのなかでの小さな課題だ。だが、それはライリー氏に大きな負担を強いるようになり、気がつけばビデオ会議で1日中話し続けている。朝一番の仕事の会議を皮切りに、友人たちや家族とも話しをしている。
「こんな時に本当に贅沢な悩みだと思う」と、ライリー氏はいう。「だが、これは問題だ」。
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これがZoom疲れだ。新型コロナウイルスの感染拡大により数百万人が家で過ごすなか、仕事も遊びもバーチャル領域へと移動した。つまり、人と人との交わりのほとんどがオンラインで起きているということを意味し、使いやすさのおかげか、それに付随する偏在性のおかげか、その多くがZoomで起きている。
もちろん、こんな働き方ができるのは特権だ。人間同士のリアルな交流ができない状況下で、簡単に使えるZoomは次善の策だと言っていい。よく言って不確実、悪く言えば不安で麻痺してしまいそうなときに、チームの仲間や友人、同僚とのつながりは何よりも貴重なものだ。
終わらないビデオ会議の大洪水
多くの企業は、全員がリモートな存在になるという新しい事態に、「過剰なほどのコミュニケーション」を命じるという対応に出た。最初の数週間はそれが役に立ったが、ある人にとってはそれがいま、正直な話、eメールやSlack(スラック)、あるいは普通の電話で済むところまで、止まるところのないビデオ会議の大洪水となっている。
そもそも意味のない会議や、eメールやSlackに置き換えられるものでさえ、人とのやりとりの多くが自動的にビデオチャットに移行されることで、Zoom疲れは悪化の一途をたどっている。通常なら古風な通信手段、すなわち電話で行われるはずの会議ややりとりまで、すべてがZoomに取って代わられた。何もかもが不確かな時勢、そして、ごく身近な家族以外ほとんど誰の顔も見られないときに、多くの人にとってビデオチャットはデフォルトなのだ。
Zoom人気の台頭には目を見張るものがある。Google Hangout(ハングアウト)の改良版として始まったものが、「省略表現」の領域に入った。「Zoomをしよう」とか、単に「Zoomは?」と聞かれたことのない人はいないだろう。
その成長は職場だけにとどまらない。家族でZoomを使うことはいまでは当たり前だ。Zoom飲み会やZoom授業、Zoomでのフィットネスインストラクション、Zoom瞑想などもある。ある友人はZoomで生まれてくる赤ん坊の性別お披露目パーティをしようと計画しているし、「なにがしかの仕掛け」をともなう企画が我々の家にやって来るようになった。職場の仲間や友人のスクリーンショット(私[米DIGIFAY副編集長のシャリーン・パサック]の場合は、フィットネスジム「イクイノックス(EQUINOX)」のインストラクターと見知らぬ10人が筋トレをしている様子)がインスタグラムの至るところに偏在している。ただ、これがある種の見せびらかしであるとしたら、あなたの人気(「見て、私にはこんなにたくさん友人がいる! 私にはこんなにいろいろな計画があった!」)がスクリーン上に滲み出るかどうかは、わかりかねるが……。
Zoomがもたらした文化的影響
Zoomがもたらす文化的影響は、ファッション業界が大急ぎで、Zoomに対応したトップスやアクセサリー(絞り染め、バンダナ、おっかないヘアバンド、そしてもちろん数日間だけ使うイヤリングなどがその典型だ)を用意したことからもわかる
Zoomは実生活での交流に置き換わるものではない。たくさんの顔が大写しになった画面だけを見つめているとき、言葉の言い詰まり、ちょっとした眉の動き、その他、言葉を使わない反応のサインはすべて吹き飛んでしまう。
センター・フォー・マインドフル ・セルフ・コンパッション(Center for Mindful Self-Compassion)のエグゼクティブディレクターであるスティーブ・ヒックマン氏が言うように、Zoomでは視覚の手がかりが多すぎる。また、画面からわかることに集中しすぎるだけでなく、背後に聞こえる電話の音や犬の鳴き声、eメールやSlackの着信音のような情報も処理しなくてはいけないかもしれない。「刺激過多の環境だ。濃厚なデザートがそうであるように、度が過ぎるとただしつこく感じるだけだ」と、ヒックマン氏は書いている。
これが新たな苛立ちを生む。自分で作ったバーチャル背景――子犬が遊んでいる姿など――を使うのが大好きな仕事仲間もいれば、それでは仕事に集中できないし不適切だと思う人もいる。「マイクがミュートになっている」と全員で叫ぶ行為も避けられない。本当はミュートにすべきなのに、全然ミュートにしない人もいる。「自宅見学ツアー」を無理にでもやらざるをえない雰囲気もある。間が悪いと固まってしまう人もいる。突然動かなくなって、接続不良のせいでフリーズしているように見えるイタズラをする人もいる(もちろんそんなことはしないが、やれば面白いと思わない?)。
筆者は違うが、Slackが届くたびに、しかもかなり頻繁に鳴るやかましい通知音を同僚が消さないことに当惑するのはもちろんのこと、それがきっかけで喧嘩になってしまうケースもあり得る。小さな荷物だけをもってブルックリンのアパートから郊外に避難した同僚は、オフィスの外で誰かと話す必要があるときにいつも着る「Zoomセーター」を持っている。彼はいつかの時点で2枚目を用意するのだろうか?(米DIGIDAY編集者注:「今やっているよ、シャリーン」とのことだ)。
目新しさは自ずとすり減っていく
リモート勤務がはじまって間もない頃の数週間、Zoomは、同僚の家での暮らしを垣間見る機会を我々に与えてくれた。キッチンを見、リビングを見、寝室さえ見た。子どもたちに会い、ペットに会い、スタンリーと名前がつけられた観葉植物にも会った。後ろに見える地球儀を開けたらバーセットになるのだろうか、それなら素敵じゃないか、と考えもした。同僚のひとりがダンジョン(地下牢)を持っていたら不気味だ。だが、こうした目新しさはすり減っていく。ミーティングのたびに、最初の5分間、仕事仲間が家のなかで部屋を移動するかどうか話したり、なぜ花柄のシャツを着ようと決めたのかと考えたり、たまたま配偶者が通りがかったタイミングで手を振って挨拶しなければならなかったりするのではなく、ただ答えを聞きたいだけのこともある。ファッションに特に敏感な同僚が、寄せ集めコーディネートの「着心地がいいだけの」服をいつまで着続けているのか(そしてそれをインスタグラムに投稿するのか)が気になったりもする。
さらに、当然のことながら、オフィスはオフィスだと言いつつも、Zoomには意地悪な側面がある。イケア(Ikea)のアートだって、信じられる? 本棚にあるのはジョン・グリシャム? この家には一部屋しかないの? バーチャル飲み会でバドライト(Bud Light)を飲むの? 本当にベッドにいるの?
接続やネットワーキングを扱う専門家と仕事をするユーザーエクスペリエンス(UX)デザイナーで、『ウイ・シュッド・ゲット・トゥギャザー(We Should Get Together:我々は一緒にいるべき)』の著者でもあるカット・ベロス氏は、これは彼女が「外界に通じる扉を閉ざしたときに、神経質なくらい考えたこと」と述べている。
その当時でもすでに「スクリーンを見ている時間が危険なほどハイレベル」になっていたと、ベロス氏はいう。いまではそれがさらに増え、誰かが何か重要なことをまさに言おうとしたときに、不適切な瞬間にフリーズするスクリーンで区切られながら通常の会話に加わるというハードルが存在する。
顕在化しはじめた別の問題
さらにほかの問題もある。「ビデオ会議では、常に笑顔でいなければいけないような気がする。言葉がそのまま伝わらないような感覚がある。黒人女性として、怒っているように見られるのは嫌だし、気難しそうに見られるのも困る。だから笑っている。でも、それに疲れた」。
「1日の終わりには、オフィスにいるときより疲れた感じがする」とTBWA/シャイアット/デイ L.A.のライリー氏は話す。常に集中し、いろいろなものにより多くの注意を払わなければならないが、同時に、皆が揃った時に、ミーティングやチェックインで会社と同じ感覚を再現できると期待もしているからだ。
多くの人が目の当たりにしている別の問題は、プレゼンティーイズム(疾病就業)にかかわることだ。
ライリー氏が言うように、誰かがビデオに顔を出さず、ほかの何かをしていると、「何を隠しているの?」という言葉にしない不思議な感覚がある。ライリー氏はチームに対し、ビデオを常時オンにしている必要はない、必要な時には席を離れ、自分のことをする時間をとっていい、と伝えようとしてきた。
目を光らせる企業の管理者たち
ある金融サービス会社でマーケティングを担当している幹部は、「私が働いている企業では、多くの作業を在宅ではやっていなかった。だがいまは在宅でそれをするようになり、プレッシャーがかかるようになった。コールや飲み会のたびに、全マネージャーがチェックインし、常にリアクションをして相手が見えていることを伝える」と話す。
寝椅子で昼寝をしている、テレビを見ている、昼間にパンを焼いている、あるいは単純にダラダラしていると管理者に思われるといけないので、Slackはいつでもオンにしておく。その習慣がビデオにも波及している。
管理者はチームの行動によりいつも以上に目を光らせることがより一般的にもなっている(少なくとも、私が先週話した3人のCEOは、通常よりコミュニケーションを密に取り、バーチャル飲み会や毎日のチェックインの回数を増やしたほか、全員参加のミーティングとビデオメッセージを毎週するようになったと語った)。どれも良いことには違いないのだが、Zoomを余分なものと見ている平均的な従業員にとっては素晴らしいことではない。
クリエイター対マネージャーの問題
別の要素もある。ポール・グレアム氏の古典的なクリエイター対マネージャーの問題だ。マネージャーは自分が空いている時間を見つけて、そこにミーティングのスケジュールを入れるのに対し、クリエイターは1日の時間をいくつかの大きな固まりにわけ、そのなかで「創作」活動を行う。通常、クリエイターにとってミーティングは面倒なものだ。つながりの代替手段としていつも以上にミーティングが増えると、何もかもがまったく制御不能に陥ったような感覚になる。
「パフォーマンスという視点で考えると大問題だ」と、ベロス氏は話す。「小さな光る点、つまりはカメラのことだが、その前に行き、画面に映る相手の顔を見る。四六時中行ったり来たりを繰り返し、まるでダンスをしているようだ。つながりを維持するためにこういうちょっとしたダンスを続けなければならない」。
Shareen Pathak(原文 / 訳:ガリレオ)