物事に動じない心は、リーダーに求められる資質のひとつである。今年7月、米ニューヨークに拠点を置くIABテックラボ(IAB Tech Lab)のCEOに就任したアンソニー・カツール氏には、その資質が備わっているようだ。
物事に動じない心は、リーダーに求められる資質のひとつである。今年7月、米ニューヨークに拠点を置くIABテックラボ(IAB Tech Lab)のCEOに就任したアンソニー・カツール氏には、その資質が備わっているようだ。
広告業界はいま、後戻りできない変化と混乱に見舞われている。その渦中に飛び込んだカツール氏は、デジタル広告の将来について立場を明らかにするよう圧力を受けても、当惑の色も見せない。激動の波に見舞われてきたこれまでの経験を考えれば当然かもしれない。カツール氏は、広告配信インフラ企業のダブルクリック(Doubleclick)のバイスプレジデントとして、Googleによる買収も経験している(統合によりGoogle広告は市場支配力を高めた)。
また、広告主によるテクノロジーの精査が強化されるなか、アドテク企業の経営に携わってきた。いまやカツール氏を動揺させるものは、ほとんどなくなったかのように見える。それでも、「アドテク業界でもっともきつい」といわれる職に就いたために、対処しなければならない課題については十分すぎるほど認識しているだろう。
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カツール氏の経歴
- 2021年7月~現在: IABテックラボ(IAB Tech Lab) 最高経営責任者
- 2017~2021年: ネクストスター・メディアグループ(Nextstar Media Group) コーポレート開発/運営事業部 デジタル戦略シニアバイスプレジデント
- 2015~2017年: ソノビ(Sonobi) プレジデント
解決すべき課題は山積み
IABテックラボの会員企業による主張は、それなりの重みがある。米DIGIDAYが、IABテックラボとの協業経験を持つ企業の経営幹部数人に取材したところ、無関心や強い不満の声が聞かれた。彼らの多くは、広告詐欺やプライバシー保護などへの対応を期待されながら、結局尻すぼみに終わり、変革の担い手としての同組織の実力を疑問視している。さらにいうと、彼らはIABテックラボを、広告主のためにインセンティブなしで何でもしてくれる、パブリッシャーとアドテクベンダーからなる団体とみなしている。また、その活動がGoogleとFacebookの動向に左右されているという不満を抱く会員企業も多い。このように、新CEOが解決すべき課題は山積みで、厳しい局面が待ち構えているのは間違いないだろう。
「この夏、私がCEOに正式に就任する前のことだが、パブリッシャーとアドテクベンダー数社の経営幹部から連絡があり、現在の環境下でIABテックラボがとるべき対応に関して意見をもらった」とカツール氏は語る。連絡を受けた場所は米国北東部沿岸で、なんと釣りとキャンプの旅の最中だったという。そのとき同氏は、ネクストスター・メディアグループを退いた直後であり、充電のための2週間の休暇を満喫していた。次にカツール氏がこうした安らぎの時間を過ごせるのは、しばらく先のことになりそうだ。
アドテク業界にはいま、試練が訪れている。ターゲティング広告に利用できるデータの制限が厳しくなり、複数の大手プラットフォーマーによるウォールドガーデンが築かれつつある。ウォールドガーデン間の緊張がふたたび高まり、それに巻き込まれた企業のあいだでは、うまく対処できている者とそうでない者の格差も広がった。IABテックラボには、パブリッシャー、代理店、広告主、アドテクベンダー、消費者擁護団体といった利害関係者間の格差解消に向けた活動が期待されている。
「ルーツに立ち返る」
「IABテックラボの役割は、連邦政府、州政府、外国政府との対話を通じ、規制と法令遵守の問題に取り組みながら、デジタルメディアのエコシステムにおける事業活動を支援することだ」とカツール氏。その役割を果たすためにカツール氏が推し進めているのは、「技術標準の整備」だ。これはつまり、IABテックラボが新たなプロトコルや規格を開発し発行する予定であることを意味する。
今後のロードマップは、CEOによる「リスニング・ツアー(listening tour:諸々の関係者へのヒヤリングの意)」が一段落した後に発表されるとみられている。そこで発表される同組織の注力分野は、消費者のプライバシー、ID、アドレサビリティ(到達可能性)、広告詐欺などになるだろう。なお、すでに進行中の計画として、広告到達先がモバイルかウェブかを識別し、視認性を測定するオープン・メジャーメントSDK(Open Measurement SDK)の技術を、年内にコネクテッドTVにも展開する意向だ。
「我々は、アドテクの研究機関としてのルーツに立ち返り、技術開発を通して、企業がイノベーションを起こすための基盤をつくりたい」。
より開かれた組織へ
また、カツール氏は、IABテックラボの取り組みを、より開かれたものにしたいと考えているようだ。
実際、IABテックラボが提供する標準規格の一部は、最終的にはクラウドソース化されるだろう。今年8月、同組織がオープンソース・イニシアチブ(Open Source Initiative)の立ち上げを発表したのもこのためだ。これは、IABテックラボが運営するオープンソースのプロジェクトとコードを、一カ所に集約して利用できるようにするための取り組だ。現在は手はじめとして、ユニファイドID 2.0(Unified ID 2.0:略称UID2)、オープンソース・IDフレームワーク(Open Source ID framework)、ブランド適合性テスト(brand suitability test)のベンチマーク、ads.certプロトコルのアップデートなどに関するプロジェクトが、スタートしている。「IABテックラボは、会員企業との連携による技術フレームワークの確立と提供において、以前よりも目に見える形で役割を果たせるようになると思う」とカツール氏は述べた。
しかし「いうは易し、行うは難し」だ。それぞれ異なる複雑なソリューションをもつ何社ものアドテクベンダーが、一堂に会して侃々諤々の議論を続けるなか、技術の標準化を図るのは難しい。ただし、その大役を果たせる人物がいるとしたら、それはカツール氏だろうと、同氏の元同僚たちは確信している。彼らによると、カツール氏は、同時に複数の角度から物事を考察するのに長けているという。同氏は、これまでさまざまな荒波にもまれる過程で、こうした能力を身に付けたのだという。
ハバス・グループ(Havas Group)で、プログラマティック・ソリューション部を統括したこともあるホセイン・ホッセイニ氏は、2014年、当時ルビコン・プロジェクト(Rubicon Project)の幹部だったカツール氏と一緒に仕事をしていた。そんなホッセイ氏は、カツール氏について次のように語る。「思いやりがあり、人助けの精神を忘れない人物だ。さまざまな分野・立場の利害関係者とコミュニケーションを取ることができる」。
ホッセイ氏は、さらに以下のように述べる。「そういった資質は、IABテックラボのCEOとして、組織の将来をになうリーダーにとって不可欠なものだ」。
コンセンサスではなく、課題の解決が最優先
ただ、いまのところ、「組織の将来」に関しては不透明感が漂っている。というのも今年、IABテックラボの経営幹部のうちふたりが、わずか2カ月のあいだに立て続けに退任しているのだ。シニアバイスプレジデントとして、消費者プライバシー/アイデンティティ/データ部門を率いていたジョーダン・ミッチェル氏が4月、入社後3年で退社。翌5月、就任してわずか4カ月のデニス・バッカイム氏がCEOの座を降りた。このふたりの辞任により、IABテックラボの組織としての方向性をめぐる懸念が、取り沙汰されるようになった。
バッカイム氏の退任から3カ月後、カツール氏がCEOに着任したことで、IABテックラボに一種の安定感がもたらされた。しかし同氏は、舵取りを任されたからには、船を安定させるだけでなく、大きく前進させたいと考えているようだ。
「これまで業界関係者から寄せられた声のなかには、IABテックラボは周囲のコンセンサスを重視しすぎて、重要な問題に対する立場を明らかにしてこなかったという意見があった」とカツール氏は語る。「我々はその評価を変えるつもりだ。IABテックラボは今後、消費者のプライバシー、ID、広告詐欺、テレビ広告からOTT広告への予算配分のシフトといったテーマに対し、それぞれ明確な見解を示していく」。
これを実行するのは、駆け引きの手腕と忍耐力が必要になる。会員企業との関係に関していえば、下手をすれば全ての企業を満足させようとするあまり、重要な目的が達成できなくなる恐れがある。それはカツール氏も認めているように、IABテックラボとしては払いたくない代償だ。実際、このコンソーシアムは「部分の総和」であり、利害関係者にとっての価値を創造するという前提で設立された組織だ。運営方法を大きく変えれば、設立の前提が崩れる。目先のメリットばかり追う近視眼的な視点に陥ってしまうのだと、カツール氏はいう。「我々は引き続き、作業部会の提言と会員企業の意見にできる限り耳を傾けるつもりだ。しかしコンセンサスの形成を優先したあげく、動きが停滞することは避けたい。業界環境が急速に変化するなか、成り行きを見守るのでなく、目の前の課題としっかり向き合い解決していく必要がある」。
注目が集まる、Unified ID 2.0の行方
IABテックラボの今後を占うリトマス試験となるのは、Unified ID 2.0だろう。サードパーティCookieの代替技術候補であるUnified ID 2.0のソースコードは、2021年5月、ザ・トレード・デスク(The Trade Desk)がIABテックラボに提供したときにオープンソース化された。IABテックラボはUnified ID 2.0プロジェクトの管理者となり、ソースコードの利用者に暗号化キーと復号化キーを配布する権限を得た。「これは、IABテックラボ主導でオープンソース化を推進する絶好の機会だ」とカツール氏。
「我々が今後、新たな技術フレームワークや、ベースラインとなるコードを公開した場合、それらの技術の所有者はIABテックラボではなく、アドテク業界になる。ほかのオープンソースのイニシアチブと同じく、我々が調整役をつとめ、統制管理を行っていきたい」。
IABテックラボが提唱するUnified ID 2.0を、広告主やパブリッシャーがただちに受け入れるかどうかは定かではない。とくに、GoogleによるサードパーティCookieのサポート終了が延期されただけに、それはなおさらだ。今後、時間を稼ごうとする動きが業界全体に広がると予想するカツール氏だが、各社が決断を先送りするリスクについて注意を喚起している。「サードパーティCookieのサポート終了延期に乗じて、土壇場でなんとかしようとするのは愚かな判断だ。延期が決まる前も、代替ソリューションの需要が短期間で一気に高まったが、同じことの繰り返しになるだろう」。
Googleだけではない。IABテックラボは、Appleをめぐる問題にも対処する必要がある。
Appleによる広告業界への影響力が拡大していることは、周知の事実だ。これはIABテックラボの会員企業にとって、チャンスでもあり試練でもある。「世界最大級のエコシステムを確立したAppleは、市場の方向性を決める力をもつが、エコシステムの役割についてはブランドや代理店とのあいだで議論が交わされている」とカツール氏は述べた。
カツール氏への期待
60日間に及ぶ、業界関係者へのヒヤリングツアーも半ばにさしかかり、実利を重んじるCEOの姿勢が浮き彫りになってきた。カツール氏は、自身の決断がつねに関係者全員を満足させるのは不可能と理解したうえで、より多くの人々の利益に資する結果を目指して、現実的な判断を下す決意を固めている――政治的な駆け引きなどは意にも介さずに。
カツール氏のCEO就任に触発されて、IABテックラボに対し懐疑的だった経営者が加盟を決めたケースもある。カリフォルニアに本社を置くアドテク企業、リセット・デジタル(Reset Digital)のチャールズ・カントゥCEOもそのひとりだ。
「カツール氏は、非常に人徳がある人物だ」とカントゥ氏。「また、彼は物事を多角的に見て判断でき、政治的な駆け引きやたわごとに惑わされない、私が知るなかでもたぐいまれな人物だ。鋭い洞察力で問題の核心に迫り、見通しを立てたうえで行動を起こす。IABテックラボのCEOは困難だがやりがいのある仕事だ。カツール氏こそ、その任にふさわしい」。
[原文:How the new CEO of the IAB Tech Lab plans to support a responsible digital ad ecosystem]
SEB JOSEPH(翻訳:SI Japan、編集:村上莞)