石井龍夫 の 日本マーケティング私史 #1 〜過去編〜:究極の ONE to ONE の時代

本記事は、元・花王デジタルマーケティングセンター長で、現在はC Channel 常勤監査役、Adobe エグゼクティブフェロー、株式会社イーライフ エグゼクティブアドバイザーを務める石井龍夫氏による寄稿です。

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今回、DIGIDAYへの寄稿をさせていただくにあたって、テーマについて編集部と検討させていただいた。結果として、DIGIDAYのメディアとしての立ち位置と私のこれまでの経験を生かせるお題として、マーケティングとメディアの関係の変遷について、私見を交えて語ってみることとした。

私の経歴を述べさせていただくと、1980年に花王に入社して以来、販売の現場配属の最初の3年間を除けば、当時の担当エリアであった東北地方のエリアマーケティング責任者を皮切りに、本社事業部でのブランドマーケティング14年、自社ウェブサイトの活用からはじまったデジタルマーケティング14年と、ほぼ花王在籍の38年弱の90%強をマーケティング業務に携わってきたといえる。ゆえに、デジタル以前と以後のマーケティングについて体験してきたひとりのマーケターとして、メディアとデジタルと関係の歴史を語っても許されるのではないだろうか。

そこでまず、本題に入る前に、「マーケティング」という言葉の定義について考えてみたい。

マーケティング=企業活動

多くの企業にマーケティング部や本部、部門などという名称のついた組織があるが、その活動内容はまちまちだというのが実情だと思う。ある会社では、主に広告活動を担当する部署であったり、またある会社では、プロモーションを管轄する組織であり、商品やサービスをつくるのは別部門であったりする。

つまり、マーケティングという言葉が、主に広告活動や販売促進活動を指すものとして使われているのが日本の多くの企業の実態ということではないだろうか。このようなマーケティングに対する誤解が、結果として現在のデジタルメディアのマーケティング活用における、ひずみを創り出しているのではないかと私は考えている。

ここで、フィリップ・コトラーを持ち出すのは適切ではないかもしれないが、「マーケティングとは、製品と価値を生み出して他者と交換することによって、個人や団体が必要なものや欲しいものを手に入れるために利用する社会上・経営上のプロセス」というのが最もポピュラーな定義だろう。この定義に書かれていることは、つまりは、マーケティング活動とは企業活動そのものだということではないだろうか。

唐突ではあるが、人類を含むすべての生物の生理的欲求の根本にあるものは何だろう。それは、繁殖による種の保存とその継続的増加であろう。

企業というものも生物の一種であると考えれば、商品やサービスを作り出し、販売して獲得した利益を再投資し、より良い商品やサービスを作り出し消費者の支持を得ることこそが、競争を勝ち残って企業規模を大きくし、継続して存続することにつながる。要するに、マーケティング活動とは企業が存続し拡大するために必須である活動であり、商業というものが生まれたときからプリミティブではあってもマーケティングが行われてきたと言い換えることもできよう。

では、日本における本格的な商業活動はいつ頃から行われてきたのだろうか。

棒手振りの魚屋の努力

豪商といわれる商人の発生を起源とすれば、それは、16~17世紀頃のようだ。つまりは室町から江戸時代にかけてということになる。言い換えれば、大阪、近江、伊勢で豪商が生まれた時代と言うことができる。ここでいうマーケティングの起源は、それまでの単なる物々交換や、地域間の特産品の移動による商売ではなく、「もの」に「価値」を付加して販売するようになったことを指している。

江戸時代の魚屋を例に取ろう。

当時の魚屋は、その日に仕入れた魚を天秤棒の両端につるした桶に入れて売り歩いた様子(棒手振り)が浮世絵などに描かれているが、そこに、マーケティングの原点を見ることが出来る。

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江戸時代の魚屋

棒手振りの魚屋は、日本橋で仕入れた新鮮な魚を得意先の家へ持って行き、その場で客の好みに合わせて切り身にして売るのが一般的であったようだ。当然彼は、その家に前回どのような魚を売ったか、また、顧客が希望する料理法にあわせてどのような部位を切り分けたのかを憶えているだろうし、何回か同じ得意先に通ううちに、その家の主人の魚の種類の好みや調理法の好き嫌いも把握するようになっているだろう。そうであれば、その日に市場で仕入れた魚の種類や鮮度によって、どの家に持って行けば買ってもらえるのか、その家の女中や奥方にどのような調理法を提案すれば確実に売りさばけるのかは、自ずと計算できたのではないだろうか。

つまり、そこには単なる「もの」と「対価」の交換では無く、商品に価値ある情報を付加して提供し利益を得るというマーケティングの萌芽を見ることができるし、お得意先の女中や奥方にとって、その魚屋から買うべき理由がそこに存在するという点をもって、マーケティングの目的である「価値の交換」が行なわれていると言って良いのではないかと思う。

要するに、ここで行われていたのは、プリミティブではあるものの、過去の購買履歴によるOne to Oneのパーソナライズであり、その日仕入れた魚と顧客のマッチングであり、顧客の趣味嗜好に合わせたレコメンデーションだと考えることが出来るし、規模の大小はあるが現代の最新のマーケティングコミュニケーション手法となんら変わることはないのだ。活用されるデータの規模と、その効力が及ぶ範囲がとても小さいので、見逃されてしまいがちではあるが、間違いなくマーケティングの原点はここにあると言えよう。

ここで、同様に江戸時代のメディアについても考えてみたい。

瓦版屋たちの売り上げ競争

江戸時代と言えば時代劇にもよく出てくる瓦版屋がマスメディアの萌芽と言えると思う。瓦版の第1号は、慶長20年の大阪落城の時の「大阪安部之合戦図」といわれているが、つまりは、幕府の勝利を幅広く伝えるための手段として編み出されたものだったようだ。

それが、庶民のものとなり、さまざまな天災や事件、ゴシップなどを即時性を持って伝えるメディアとして成長していった。後には、大きな版元(瓦版の版木をつくり印刷する業者)だけでなく個人営業の版元も生まれ、街角では、際物師や唄もの師と呼ばれた販売員が記事への興味を煽って、瓦版の売り上げ競争をしたという。

そこには、どのような記事の瓦版がより多く刷られたか、読者受けする記事はどのようなものか、という販売員の肌感に基づくデータが活用されていたことは想像するまでもないことだ。

瓦版は掲載される情報が新聞のように網羅性が無く、単一のトピックであること、なおかつ興味を持った人のみが買い求めるという販売形態なので、新聞の起源というよりは、現代に置き換えてみれば、ソーシャルメディアやキュレーションメディアに近いものだったのではないだろうか。つまり、江戸時代にはマスメディアより先に、パーソナライズドメディアが存在したといっても良いのではないかと思う。

江戸時代だからできたこと

これまで、マーケティングやメディアの原点として江戸時代の魚屋や瓦版屋を事例としてあげて話をしてきた。また、そのプロセスが、現代よりも、よりデータドリブンでパーソナルなものだという認識も提示したが、なぜそのようになったのか、その背景について、ここで考えてみたい。

私はその理由として、消費者とサービス提供者間の情報格差の少なさを提示したい。

つまり、江戸時代のように人や物の移動に制限がある環境では、情報の伝播の範囲も狭く、他の人の知り得ない多くの情報を取得し集めるということが出来にくく、情報の量や新しさによる優位性を創り出すことができなかった。また、その反面、コミュニティが狭い範囲に限られるために、コミュニティ内では詳細な情報が共有可能であったことがプロセスをよりパーソナライズ報告に向かわせていたのではないだろうか。

言い換えれば、この時代の商人は制限された活動範囲の中で、消費者とさして変わらない情報量にも関わらず、知恵を絞って付加価値創造型マーケティングやメディアコンテンツの創造に取り組んでいたのだ。

マスメディア時代との違い

これまでの話の中で、私は、マーケティング活動のあり方やメディアの性格の両方に影響する因子として、消費者とサービス提供者(魚屋や瓦版屋)の情報量の格差を挙げた。

マーケティングの黎明期は、消費者とサービス提供者の情報格差が少ないがために、手元にあるデータを有効に使い、活動範囲が狭いことを利点として、パーソナライズドマーケティングやメディアが活躍した時代だということができる。

次節では、これまでの制限の中、知恵を絞ってパーソナライズされた日本のマーケティングやメディアが、開かれた近代のマスメディア時代を迎えるにあたって、とどのように変貌し、何を得、何を失ったかについて考えてみたい。

Written by 石井龍夫
Photo by Wikipedia(TOP画像文中