明治以降、広告と生活者の接点は、興味があるから広告(引札)を受け取るのでは無く、たまたま見た新聞に偶然広告を見つけて興味を持つという流れに変化していった。この流れはインターネットの発生と普及まで続くことになる。ーー石井龍夫氏による寄稿コラム。
本記事は、元・花王デジタルマーケティングセンター長で、現在はC Channel 常勤監査役、Adobe エグゼクティブフェロー、株式会社イーライフ エグゼクティブアドバイザーを務める石井龍夫氏による寄稿です。前回の寄稿「石井龍夫 の 日本マーケティング私史 #2 〜テレビ全盛期〜:マスメディアがもたらした『均一性』の時代」はこちら。
私は前回、マスメディアとマスマーケティングコミュニケーションの関係について、「情報格差」という視点で解説を試みた。そのなかで、価値ある情報として広告が機能するには、情報格差の存在が重要であったという考え方を提示した。
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ところで、情報を発信する側の企業と受け取る側の生活者との接点は、どのように作られていたのだろうか。第1回目では、江戸時代の瓦版屋を例にとって、その情報を欲しいと思う生活者が対価を払って瓦版を買うというモデルがメディアの最初のあり方だったと書いた。では、江戸時代の広告はどうだったのだろう。
現在の三越の前身である呉服店の「越後屋」が創案した店章入りの「貸し傘」が広告活動としては有名だが、当時の広告の中心は、木版刷り錦絵で描かれた「引札」と呼ばれるチラシが主体であったようだ。つまり、江戸時代の広告活動は、メディアであった瓦版などとは別に、広告を行いたい店舗が自分の手で広告素材を作り、自ら配布していたのだ。江戸時代のような制限された活動範囲のなかでは、マーケティングコミュニケーション活動はメディアに頼ることなく、広告主自らの手で行われていたということが出来る。
一方向的なコミュニケーション
このような閉鎖環境が、開国を経て明治時代となり、大きな変化を迎えることになる。日本で最初の日刊新聞は1870年(明治3年)創刊の『横浜毎日新聞』といわれているが、創刊号から広告掲載もあり、「引札値段附」として文字数単位の広告価格の設定がされていた。
つまり、ここから広告主たる店舗や企業は自らの手の届く範囲を超えて、より多くの生活者に広告として商品やサービスの情報を伝えることが出来る時代がやって来たのだ。まさに不特定多数に向けた広告活動というものが文明開化の掛け声とともにはじまったといえよう。
ただ、ここで述べなくてはならない重要な視点は、これまでの江戸時代の広告活動は、広告を作り配布する店舗と受け取る生活者の合意のもとに関係性が存在していたが、この段階から広告は一方的に送りつけられるものになったという点にある。つまり、「引札」を受け取る生活者は引札に興味があるから受け取ったのだが、新聞に掲載された広告を見る生活者は新聞の記事が読みたいのであって、掲載された広告が読みたかったわけではない。広告と生活者の接点が、興味があるから広告(引札)を受け取るのではなく、たまたま見た新聞に偶然広告を見つけて興味を持つという流れに変化していったのだ。
そして、この流れは、新聞からラジオ、テレビへとつながるマスメディアの普及のなかでもさしたる変化はなく、インターネットの発生と普及まで続くことになる。
マスメディア全盛期を経て
前回の寄稿でお話ししたように、私が花王でマーケティング担当となった1980年代後半は、まさに、テレビコマーシャルを中心としたマスマーケティングが華やかな時代であった。そして、そのとき、広告制作の基本として私が教えられたことは、ブランドマネジャーが広告会社やコピーライターなどの広告クリエーターにオリエンテーションを行うときには、想定ターゲットを明確にし、伝えるべきコンセプトや価値をひとつに絞り込み、かつ100文字以内で記述しなくてはならないということであった。
その理由は、15秒や30秒といった短い尺で、かつ、番組の合間や番組と番組の間に挿入することが前提のテレビコマーシャルなので、視聴者の関心や興味を広告に引きつけるには、簡潔で印象的なメッセージに仕上げる事が必須であるという考え方だ。
一方で、番組ごとに視聴者層が異なるとはいえ、一家団欒で視聴することが前提であるテレビの、もっとも大きな効果はリーチを稼ぐことであり、リーチとフリークエンシーを一定以上に保つことで、企業が本来情報を伝えたいと願っているターゲット層への歩留まりを経験値的に期待するという活用の仕方にならざるを得ない点には課題があった。
要するに、企業と生活者の情報格差があるとはいえ、リーチ拡大を目指すがためにテレビ番組という圧倒的な魅力を持つコンテンツと同居せざるを得なくなったことで、広告はテレビのメインコンテンツである番組に寄り添うコバンザメのようなものになっていったのだ。
企業がメディアを持つ時代
花王がインターネットのホームページをはじめて公開したのは、1994年に遡る。1994~1995年は、日本の大手企業のなかでも先進的な企業がウェブサイトを立ち上げた時期であり、花王も社内の有志が中心となって、サーバの準備からコーディング及びデザインまで手弁当で行ったと聞いている。花王ウェブサイトの大きな転機は1999年に「インターネット推進室」という名称の組織が発足したことからはじまる。
それまで花王のウェブサイトは、「Piony」という名称のウェブ月刊誌の体裁をとった生活情報コンテンツを中心に、一部のブランドサイトやブランドコンテンツが散在しているというもので、サイトごとにナビゲーションやヘッダ・フッタなどが違っていたり、ガバナンス的に課題のあるものだった。
そのような時期の「インターネット推進室」のミッションは、それらのサイト群のテンプレートの共通化によるガバナンスの実現につながるレギュレーションの決定とそれにもとづく花王ウェブサイトの管理だった。このような組織作りを他社に先駆けて決定した花王の幹部の意識の根底には、「企業が自社メディアを持つ時代」が、ようやくやってきたという思いと、インターネットのマーケティングコミュニケーションへの可能性への展望というものがあったと考えている。
これまで、企業としての情報発信をするには、新聞や雑誌、ラジオやテレビといったメディアに広告か記事が掲載される必要があった。広告は広告費さえ払えば掲載されるが、記事は企業が望んだ時期に望んだ内容で掲載されるとは限らないので、自分の意思で発信内容や時期を選択できる「自社メディア」を持てるという期待があったのだ。
生活者は「物いう顧客」へ
しかし、当然ながらウェブサイトを公開しただけで閲覧者の来訪を増やすことは出来ない。自社サイトを育て、より多くの視聴者を獲得するという業務がインターネット推進室の重要な業務となる運命にあった。
そこで、インターネット推進室は、2003年には社内のWeb制作部門と一体化してWeb作成部と改称し、1998年にはじまったGoogleの「検索エンジン」へのSEO対策などを図りつつ、ブランドサイトの拡充を行った。また、2007年には、業界に先駆けて取り扱い製品全品目を網羅したカタログサイトの構築を実施し、ブランド名での検索の受け皿をカタログサイトとし、そこからブランドサイトに検索訪問者を流し込み、トップページをブランドサイトのハブとして、検索訪問者のサイト間回遊率を高めるという戦略を実現していくことになる。
一方で、インターネット広告も、1996年にYahoo!JAPANがサービスを開始し、バナー広告の取り扱いを開始したのを皮切りに、メールマガジン内にテキスト広告を挿入するメール広告もはじまり、続いて1999年にはアフェリエイト(成果報酬型)広告、2002年にはリスティング(検索連動)広告が生まれ、その後、コンテンツ連動型広告や行動ターゲティング広告へと進化してきた。
ここでのインターネット広告の目的は基本的には、広告を見てクリックしてもらい、自社のウェブサイトを訪問してもらうことであり、ウェブサイトへの期待値は、やはり訪問数の拡大で、滞在時間の増大による企業やブランドの価値の理解促進であった。つまり、この段階でのインターネット広告や企業ウェブサイトの目的は、マスメディアにおける広告活動と同様に「伝える」ことで、情報を伝える対象が、マスメディア時代の不特定多数の生活者から、「自発的な興味関心」を持つにいたった特定の個人の集合体へと変化しただけだということが出来る。
しかし、実は、この「自発的な興味関心」というもの発生と、それを支援し、情報を誰でもが手の届くところへと導いた仕組みである「検索エンジン」が前回の寄稿で提示した「情報の均一性」を崩壊させる大きなテコになったことはいうまでもない。検索エンジンを使いこなすようになった生活者は、やがて、自らの意思でインターネット上のさまざまな情報にアクセスし、特定のカテゴリーにおいては企業以上に詳しくなり、受け取るだけの生活者から「物いう顧客」へと変化していくことになる。
顧客を理解する手段として
そのようななかで、一部の企業は、インターネットのウェブサイトに情報発信のための自社メディアだけではない価値を見い出すことになる。それは、自社ウェブサイトへ視聴者が訪問することにより残してゆくログデータだ。
インターネット推進室を母体として生まれたWeb作成部を擁する花王は、このログデータに早い段階から価値を見いだした企業のうちのひとつであるといえよう。広告をクリックして自社のウェブサイトを訪問した閲覧者は、どのようなサイトから訪問し、自社サイトのどのようなページにどのくらいの時間滞在し、次にどのページに遷移したのか。また、検索で訪問した閲覧者はどのようなキーワードで訪問し、どのようなコンテンツに関心を持ったのか。
企業サイトが、情報を伝えるメディアという立ち位置を脱し、データに基づいて自社の商品やサービスに関心を持つ生活者をより深く理解するきっかけを提供するものになり得ることに気づいたのである。
次回は、現在のインターネットのメインストリームであるソーシャルメディアの出現とそれによるマーケティング環境の変化について考えてみたい。
【石井龍夫 の 日本マーケティング私史】
#1 〜過去編〜:究極の ONE to ONE の時代
#2 〜テレビ全盛期〜:マスメディアがもたらした「均一性」の時代
#3 〜ネット黎明期〜:企業が「自社メディア」を持つ時代
#4 〜SNS氾濫期〜:マイノリティがメジャーになる時代
#5 〜AI 発展期〜:パーソナライズへ回帰する時代
#6 〜未来編〜:生活者がメディアになる時代
Written by 石井龍夫
Photo by gettyimages