イノベーションは育てられなければ、ただのクレイジーにすぎない

本記事は、株式会社ニューバランス ジャパンでDTC&マーケティング ディレクターを務める鈴木健氏による寄稿コラムとなります。

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サフィ・バーコールの『Loonshots:How to Nuture the Crazy Ideas that Win Wars, Cure Diseases, and Transform Industries (St Martin Press、2019年)』は、イノベーションについて語った本である。Loonshotとは聞きなれない言葉だが、Loonとはクレイジーという意味である。これとよく似た言葉でテクノロジー業界でよく聞くムーンショット(Moonshot)がある。ケネディ大統領が有名な演説で月に人を送ることを宣言したことを受けて、有意義でありかつ大きな目標のことを指す。

Moonshot:1)月に向けて宇宙船を発射すること。2)志のある大きな目標のこと。達成することに大きな意義があると多くに期待されるもの。

Loonshot:無視されたプロジェクト。多くに途中で中止されるもの。うまくいけばすべてが帳消しになるほどの成果を出すもの。

Loonshotとは要するにMoonshotを実現するイノベーションのことを指す。イノベーションについてはクレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』で語られたイノベーションの分類や破壊的イノベーションというコンセプトが有名だが、この本ではあえて最後までそのことには触れていない。もちろん破壊的イノベーションのみがクリステンセンの主張ではないので、それはジョブ理論なども含みつつ考えるべきだが、バーコールは自身がバイオテックのスタートアップ企業の共同経営に関わっていただけあって、イノベーションを生み出すためにリアルなビジネスの現場で、何が重要かという視点がユニークである。そして、その要諦はひと言で言えば、イノベーションを生み出す「構造」に重点が置かれている。

組織文化ではなく「段階(Phase)」が停滞をもたらす

バーコールは自分が物理学の博士号を持っていることもあり、物理的な比喩からスタートする。ビジネスの歴史をみると、なぜ素晴らしい業績を出して隆盛を極めた企業が没落していくのか? ノキア(Nokia)しかり、ゼロックス(Xerox)しかり、コダック(Kodak)しかり。特にそのような企業は自社の企業文化を競争力の源泉と考えることが多いのだが、同じ社員と文化でありながら、凋落していくのは、まるで水がある温度まで下がると突然凍ってしまう状態と似ているのではないか、と考える。水は同じ水でも、状態によってまったく異なる、ということがあり得ると。このことが原因となって液体のときは活発に動いていた分子のような従業員が、ある臨界点を過ぎると急に不活性化されて硬直することがある、というのだ。バーコールはイノベーションの源泉として、社員の質、という個々の問題ではなく状態を作り出す「構造」つまり組織にあると指摘する。

このような組織の状態=「段階(Phase)」をうまくコントロールできないと、液体が固体になるように不活性化が避けられない。具体的には素早い意思決定や実行でイノベーションを生み出したスタートアップがいつのまにか大企業化して組織が硬直化して何もかも意思決定が遅くなり、新しいアイデア(バーコールの言い方ではLoonshot[クレイジーなアイデア])が生まれなくなる状態を指している。

イノベーションを生み出す組織を分離するだけでは成功しない

Loonshotのようなクレイジーなアイデア、イノベーションを生み出す組織は、実際のビジネスを稼働させ利益を生み出す組織と分離せよ、というバーコールの主張は新しいものではない。同様の考えはキャズムで有名なジェフリー・ムーアが、『ゾーンマネジメント(Zone to Win)』で展開している。彼はイノベーションを生み出す役割は、現在主要な利益を生んでいるビジネスの運営と切り離すべきだと主張して、インキュベーションゾーンと名付けている。昨今のスタートアップアクセラレータープログラムやCVCなどの動きも、その流れに属しているといっていい。

だが、このような動きだけでは成功するとは限らない。バーコールはイノベーションを生み出す水のような自由さを持つ段階を「アーティスト(芸術家)」、それに対して固定化された実行を重視する段階を「ソルジャー(兵士)」と呼んでいる。アーティストとソルジャーはたしかに相容れないが、分離されたままでは機能しないのだ。お互いが分離されているうえで、アーティストが生み出した新しいアイデアをソルジャーが実践で運用し、そのフィードバックをアーティストに戻すサイクルが欠かせないのである。

それをバーコールは同じく科学的比喩で、「動的均衡 Dynamic Equilibrium」と呼んでいる。ジェフリー・ムーアの言い方にならえば、インキュベーションゾーンはただ5年で利益を出すようにするだけでなく本業のビジネスに名を連ねるような事業に育てるか、もしくは会社全体をトランスフォームするイノベーションに変えていく必要がある。そして、これをリードするのは優れたアイデアそのものではなく、それを実現させるためのリーダーシップが欠かせないのである。

このような動的平衡がないために失敗した古典的な事例は、ゼロックスのPARC研究所である。ニューヨーク本社から離れた西海岸パロアルトに作られたアメリカ初の企業ラボだったPARCは、Appleやマイクロソフト(Microsoft)も引き継いだGUIなど新しい技術を開発しておきながら、本業のゼロックスにはまったく影響を及ぼさなかった。また逆にアーティストばかりを重視して本業をおろそかにしたために失敗したのが80年代のスティーブ・ジョブズである。彼は新しいマッキントッシュのプロジェクトを率いながら、当時のビジネス源泉であったApple IIの事業をまったく無視していた。結局、彼は自らが招いたソルジャーの代表であるジョン・スカリーに追い出されることになった。

組織のマジックナンバーがイノベーションを生む要因

バーコールはイノベーションを生むための組織の構造と人数規模についても新しい視点を提供している。それはマルコム・グラッドウェルが紹介して有名になった組織の限界人数「ダンパー数」である。ダンパーによれば人間の脳の大きさから社会的関係が維持できる人数規模には限界があり、軍隊組織なども経験的にそれを最大単位として経験的に運用している。それは150人という数で、それをダンパー数と呼ばれている。

バーコールはこのダンパーの脳科学的な推定は間違っていると示唆しつつも、150という数字が社会組織のなかでのマジックナンバーとして知られていることから、この数に注目し、それをもとに組織内の構成員がどのような力学にあるかを分析する。組織は大きさのみならず、給料などその組織が推奨するインセンティブによって決まるからだ。そしてこの限界人数=マジックナンバーをなるべく引き上げることがさきほどの動的平衡を保つ方法であると指摘する。

バーコールが上げる例のなかには、リーダーが率いる人数(スパン)がある。ひとりのリーダーが直接率いるチームの数が少なければ少ないほど、タイトでオペレーションが中心になるので、これは「ソルジャー向き」の構造である。一方でイノベーションを生み出すためには、このチームの数が多い、つまり自由で幅広いアイデアを直接リーダーにレポートできる人数が多いほうがよい。バーコールは実際に、Googleでのクラウド事業のエンジニア出身のリーダーが、世界中のエンジニアをダイレクトレポートにして自由なアイデアを募り、成功させた例を紹介している。

歴史に学んだブッシュ=ヴェイルの規則

バーコールの視点が面白いのは、ビジネスだけの事例ではなく、歴史においてこのLoonshotがいかに生まれ、そしてそれが世界を変えるMoonshotになったかを発見している点である。そしてイノベーションを組織的に生み出すためのルールを、それを実践した歴史的人物の名前から「ブッシュ=ヴェイルの規則」と呼んでいる。

ヴァネヴァー・ブッシュとセオドア・ニュートン・ヴェイルの名前は日本ではほとんど知られていないが、この2名の人物はアメリカ近代において、このLoonshotを育て実現させたリーダーなのである。

ブッシュ氏は米軍のDARPAのもととなる組織を第二次世界大戦前にルーズベルト大統領の直下で推し進めた人物で、レーダー技術の開発など米国が戦争に勝つために必要なイノベーションを生み出す功労者となった。また、ヴェイルはグラハム・ベルが発明した電話と、その会社の特許が切れた際に多くの競合が参入して衰退していた際に発展させた経営者であり、ブッシュと同様、イノベーションを生み出すベル研究所を創設した。ふたりに共通しているのはイノベーションを生み出す方法ではなく、それを効果的に実践する方法なのだ。バーコールは要点を「ブッシュ=ヴェイルの規則」として以下のようにまとめている。

  1. 組織の段階を分けること
  2. 動的平衡を作り出すこと
  3. システム思考を広げること
  4. マジックナンバーを引き上げること

Loonshotと破壊的イノベーション

最後に、バーコールは有名なクリステンセン教授の破壊的イノベーションとLoonshotについて比較して語っている。クリステンセンは企業が通常進める新しい開発などの取り組みを「持続的イノベーション(sustainable innovation)」と呼んで、競合がまったく違う形で業界のルールを変えてしまう破壊的イノベーションと区別した。彼の有名なイノベーションのジレンマは、優良企業であればあるほど、既存の競争軸のなかでのみの専門的な技術革新を目指し、持続的イノベーションは起こせるが、顧客が求める以上の高性能や高価格の商品を作り上げる傾向にあるために、違う形で顧客に価値提供をする破壊的イノベーションをもたらすプレイヤーに市場を奪われてしまうことがあるというものだ。例として、コダックがフィルムカメラにこだわり、デジタルカメラの市場機会を逃したことなどがあげられる。また、クリステンセンは破壊的イノベーションの定義を「新しい市場を創造すること」としており、そのことからするとUber(ウーバー)は破壊的イノベーションではないということになる。

しかしバーコールは、Googleやウォルマート(Walmart)、イケア(Ikea)、アメリカン航空(American Airlines)などの成功の歴史を説明し、それらはすべて持続的イノベーションから生まれたこと、また「新しい市場を創造する」として多く生まれて失敗したスタートアップのLCC航空会社が破壊的イノベーションだとするなら、このような区別はアカデミックには歴史を分析する意味があるかもしれないが、リアルビジネスにおいては後付けの解釈で意味がないと批判している。

バーコールは、Loonshotの種類をPタイプ(Product:製品)とSタイプ(Strategy:戦略)とわけているがそれがどちらも優れているかどうかという意味ではなく、単純に種類が違うことを区別しているだけだ。PタイプのLoonshotはロケット技術やレーダーなどのテクノロジーから生まれることが多く、ポラロイドやiPhoneであり、その登場はドラマチックであると同時に死ぬのも速い。SタイプのLoonshotはアメリカン航空のマイレージプログラムやウォルマート、GoogleやFacebookやAmazonであり、彼らが最初にそのカテゴリーの発明したわけではないが、多くは徐々に市場に浸透するので見分けるのが難しいものである。

いずれにせよバーコールにとっては、Loonshotのようなクレイジーなアイデアというのは、企業における本業で培ってきたこれまでの常識に反するようなものであり、多くは無視され中止されるものだからこそ、それらが受け入れられ成功させること自体に意味があるので、イノベーションはLoonshotとイコールではない。イノベーションはただクレイジーなだけでは成り立たず、いまのビジネスを支える組織とともに育てることに意義があるのだ。

Written by 鈴木健
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