西口一希氏の著書『たった一人の分析から事業は成長する 実践 顧客起点のマーケティング』とは、氏のマーケティングにおける長い実践経験から書かれており、マーケティングの現場や経営者の立場から、あらためてマーケティングが「顧客」を通して事業を動かす方法を解き明かしたものである。ーーニューバランスの鈴木健氏による寄稿。
本記事は、株式会社ニューバランス ジャパンでDTC&マーケティング ディレクターを務める鈴木健氏による寄稿コラムとなります。なお、DIGIDAY+では、鈴木健氏と西口一希氏の特別対談イベントを5月30日(木)に予定しています。
「広告の半分は無駄なのはわかっている」と、かつてジョン・ワナメーカーは言った。そしてこう続ける。「問題なのは、どちらの半分が無駄なのかがわからないことだ」と。マーケティングは現実的なビジネスの科学でありながら、その半分は無駄というより、不透明な「アート」と言われ続けてきた。マーケティングにおける真理とはそのような意味で、マーケティングの関係者にしか通じない「専門化されたスキル」であり、マーケターを良くも悪くもそのような「象牙の塔」に押し込めてきた。
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そして経営者にとっては、マーケティングと同様に重要視されていながら、同時にその示すところが広範囲に渡るものとして「顧客」がある。かつてP&Gを再建した経営者A・G・ラフリーはこう言った、「顧客がボスである」と。だが「顧客を大事にする」という信条は、一般的にはむしろそれを言わない企業を探すほうが難しい。顧客主義とは、実はマーケティング従事者と同様に、多くの経営者がビジネスを健全に行っていることの言い訳のように使われている。
スマートニュースのマーケティング担当の執行役員でもあり戦略コンサルタントでもある西口一希氏が先ごろ出版した『たった一人の分析から事業は成長する 実践 顧客起点のマーケティング』とは、氏のマーケティングにおける長い実践経験から書かれたものであり、マーケティングの現場や経営者の立場から、あらためてマーケティングが「顧客」を通して事業を動かす方法を解き明かしたものである。
西口氏は、実際にP&Gやロクシタンのような外資系企業からロート製薬に至る幅広い経験から、マーケティングと経営を通して一貫した問題点を感じてきたことがこの書の動機付けになっている。つまりそれは、ワナメーカーのように「半分の無駄」の理由を求める営業部門の糾弾に関して、マーケティング担当がせいぜい短期的な販促施策ではない長期的なブランディングの重要性を伝えるに過ぎず、それらがどのように事業に機能しているかを可視化できていない現実があるということだ。と同時に、経営者の視点で、世の中がトレンドに引っ張られ流行りのバズワードに飾られたテクノロジーや、新しいデジタルメディア、マーケティングアプローチを企業が実行していくなかで、実際にはビジネスの結果へのフィードバックが明確に語られない状況に対してのものである。
だからこそ、西口氏の言葉の使い方は、わかりやすくシンプルであり、バズワード的ではない。その意味では「もうすでに知っているよ」という声も聞こえてきそうだが、このシンプルな思考を実際に全社的に一貫して実行している組織はそう多くないはずだ。それだけ西口氏のアプローチは本質的な意味での「顧客」を志向している。
顧客を無視した差別化ではなく「独自性」
マーケティングの歴史からすると、顧客を志向する考え方は枚挙にいとまがなく、おそらく「顧客」を無視した考え方はほとんどないと言っていい。ただし、例外は米のコンサルタントの故ジャック・トラウトだろう。彼は企業が先ほどのように顧客中心をみんな訴えているせいで、「右へ倣え」のマーケティングしか出来ていない、と批判した。彼は顧客主義よりも「競争環境と市場」を見ることによって、他企業のやっていることに対して、自社を差別化することを推奨した。
この「ポジショニング」と「差別化」という考えは、マーケティング関係者や広告関係者にはめっぽう評判が良く、いまだに強力な論理として通用している。ただし、トラウトの批判的文脈を離れて、顧客を単に無視してしまうと、途端に企業中心の市場の罠にはまってしまうことも事実である。それは市場の競争だけをみて、顧客にとって意味のない優位性の競争に陥ることであり、ニッチな立場にこだわり過ぎて成長を阻害することでもある。
マーケティング科学を専門とするアレンバーグ・バス研究所のバイロン・シャープ氏は『ブランディングの科学』において、西口氏と同様に、これまでのマーケティングの書籍を批判して、実証的なデータをもとに理論を検証した例が少ないと語っている。彼が標的にするひとつは「差別化」という考えであり、マーケティングではこの差別化を誇張し過ぎていると指摘する。差別化と対比されて重視されるべきは「独自性(distinctiveness)」である。西口氏も差別化とは「競争の戦略」を唱えたポーターのいう本来の意味とは違って比較優位という意味で誤解されていると主張し、独自性は「Only-one Uniqueness」=唯一性であるべきだと提案する。どちらも他社と比較することの「差」を語るのではなく、所有可能な意味を指している。
西口氏はこの独自性そのものだけでなく、「便益(ベネフィット)」を合わせたものが彼の言う「アイデア」であり、これらがメッセージとして顧客に理解されない限り、その商品が購買され続けることはない。そして便益があるが独自性がないものを「コモディティ」と呼んでいる。そして商品の多くはこの独自性のない競争にあり、本来トラウトが批判したかったのはこの点なのである。
顧客を起点にスマートニュースを拡大させる「アイデア」を開発
みな同じように見えるコモディティを打破するためのマーケティングという考え方は目新しいものではないが、西口氏は安易にコミュニケーションアイデアで解決することに注意を促している。それよりもむしろ、彼は自社のマクロな「顧客ピラミッド」を見据えて、まだ成長可能性があり得るセグメントに対して「アイデア」をもって顧客の構成を変えることを推奨しているところに実務家らしい現実味がある。
より細かく言えば、あるアイデアが仮に先行したアーリーアダプターにおいてコモディティだったとしても、認知が獲得していないマジョリティの潜在顧客においては、先に認知を獲得すれば自社の顧客として獲得できる可能性が高まるということである。これはたいがいの企業が新製品を出すことに熱中し過ぎて、ある時期に成長が停滞すると、キャズムを越えるのを諦めてしまうという問題について西口氏が自身の経験をふまえて語る現実でもある。
そして顧客を動かすアイデアはどう探すのか、という課題に対して非常にシンプルかつ本質的なアプローチを西口氏は提供している。それは、それぞれのセグメントの具体的なひとりの顧客N=1から出発することだ。西口氏によれば、どんな人でも、具体的な3つの質問「知っているか? 買っている(使っている)か? その頻度は?」をすれば、自社の顧客のピラミッドのどの部分に位置するかを把握でき、それさえわかればどのような提案(アイデア)をすれば、顧客の上位のセグメントに移動できるのかを考えることができるのである。
西口氏は手はじめにロイヤル顧客(購買頻度が高い現在顧客)からインタビューをすることを推奨している。ロイヤルティの高さとは自社ブランドが好きだ、という意味ではない。ロイヤル顧客とは、次に購入する意図がある顧客であり、顧客となった期間が長い顧客であればあるほど、どのような推移やきっかけで顧客になったのか、そしていままで顧客で居続けるのか、を理解できる。つまり顧客としてのカスタマージャーニーが理解できるのだ。
こうして見つけたアイデアは、メッセージに変換できるような便益と独自性をもったコンセプトとして、N=1以外の同様のセグメントに受け入れられるかどうかを定量的に評価し、それをもとにコミュニケーションアイデアへと進化させる。こうして生まれたのがスマートニュースを日本最大のニュースアプリへと成長させた一連のCMやマーケティング施策であり、その実績なのである。このような明快なサクセスストーリーは、日本のビジネス業界にとっても、経営者にとっても、マーケティングの価値の復権とも言えるのではないだろうか。
便益とプリファレンス(選好性)を拡大するためのイノベーション
現実のマーケティングにおいて、西口氏の語る「プロダクトアイデア」は、継続的に開発され続けなければ維持するのが難しい。そして本来はその継続を補完するのが「コミュニケーションアイデア」なのである。たとえばコカ・コーラは、かつてはティーンエイジャーが夏に飲み物売り場で買うソーダ飲料だったものが、いまではスポーツ観戦から映画、家族との食事、誕生会など、さまざまな購買機会を便益としてコミュニケーションしていることで、ブランドの購買機会を拡大している。このような購買機会は、バイロン・シャープ氏の用語では、「カテゴリーエントリーポイント(その商品が購入または使用される文脈や状況)」として説明されており、これらの認知が潜在顧客層に拡大すればするほど、顧客が拡大するのである。
アイデアに結びつく便益とはその意味で、西口氏がブランディングと呼ぶプリファレンス(選好性=購入意向)と結びついている。コミュニケーションが成功すると、認知が高まるだけでなくこの購買意向が上がり、実際に購買機会がメッセージ到達の結果として増えるのである。同じくP&G出身の森岡毅氏が『確率思考の戦略論』で示したプリファレンス(選好性)の水平拡大とはこのことを示している。
西口氏のプロダクトアイデア、シャープ氏のカテゴリーエントリーポイントとは、クリステンセン教授の「ジョブ理論」と同様に、顧客の文脈や状況を明らかにすることで、商品が持つ便益を発見することでもある。その意味で、顧客から「アイデア」を導き出す手法は、すべてイノベーションを生み出すための方法なのである。
「顧客起点のマーケティング」の次なる続編にも期待
最後に西口氏の言うコミュニケーションアイデアの独自性について、より大きな可能性があることを指摘しておきたい。氏はコミュニケーションアイデアのみで成功するのはリソースを投入できる大企業に限られると言っているが、そうではない事例もある。直近の例ではハズキルーペである。彼らはたしかに大量に広告を投下しているが、決して大企業のような広告代理店任せでもなければ、博打を打っているわけでもない。
そしてコミュニケーションアイデアの独自性は、プロダクトアイデアの独自性(特許)よりも保護されることを彼らが実証している。ハズキルーペの認知獲得の目的のひとつは、不正競争防止法によって、自社の類似品を法的に排除することであった。先進国の多くで適用できる不正競争防止法とは、消費者を混乱させないための模倣やコピーキャットを取り締まる法律で、その根拠には「著名性」、つまり誰でも知っていることが条件である。これは西口氏も語っている通り、先に認知を獲得している場合は、これを覆すのが難しいので、コミュニケーションアイデアの独自性を築くことは継続的価値があり、しかも法的に保護される可能性があるのだ。
それに比べてプロダクトそのものの便益は、真似されやすいし、それを妨げる手段はほとんどない。たとえば韓国や中国のメーカーはAppleなどアメリカ企業のコピーや物真似が得意で、しかもより低価格で実現している。もし仮にプロダクトアイデアのみで確立したブランドがあっても、その優位性は持続するのが困難であるのはAppleの中国での不振が証明している。
コミュニケーションアイデアの独自性は、認知を獲得し、維持できればその購買機会が失われない限り持続可能である。たとえば伝統的な有名ブランドの事業や財務が立ちいかず他企業に売られた場合でもビジネスが可能なのは、プロダクトアイデアの資源よりも、コミュニケーションアイデアの独自性の価値が高いためである。それらは再生可能なのだ。
そしてコミュニケーションアイデアの独自性を確立するためには、ただ広告代理店やクリエイティブを強化するのではなく、より科学的なアプローチが可能なはずである。このあたりは西口氏の書籍の巻末の参考文献リストを見る限り、今後の「顧客起点のマーケティング」の応用編として期待できるのではないかと、密かに期待している。
5月30日(木)に予定している鈴木健氏と西口一希氏の特別対談イベントでは、西口氏の著書『たった一人の分析から事業は成長する 実践 顧客起点のマーケティング』をもとに、いまあらためてマーケターは顧客とどのように向き合うべきか、議論を深めていただきます。ご興味のある方は、ふるってご参加ください。
Written by 鈴木健
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