過去半世紀にわたり、医薬情報は製薬会社の営業担当者( MR )による現場の訪宣活動を通じて医師に伝えられてきた。しかしコロナ禍でデジタル化が加速するなか、製薬業界の状況も変化している。ヘルスケア専門のDSP/SSPを提供するアドテクベンダー、 Doceree (ドックケア)はその最前線にいる。
過去半世紀にわたり、医薬情報は製薬会社のMR(営業担当者)による現場の訪宣活動を通じて医師に伝えられてきた。
しかしコロナ禍でデジタル化が加速するなか、製薬業界の状況も変化している。いまやマーケターたちは、MRの代わりにテクノロジーを活用するようになっているのだ。たとえば、医師が診察室で電子カルテを見ながら患者に接しているあいだ、広告を表示して情報を発信するといった具合だ。また製薬会社は、患者が購入した処方薬の袋に貼付された明細書のデータにより、自社のキャンペーンが当該製品の処方と購買につながったかどうかも確認できる。しかし、電子診療情報にもとづいて、ターゲティング広告を配信するとなると、プライバシー法案への抵触や、医療費の高騰可能性といった懸念についての議論が必要になる。
「過去18カ月のあいだに、我々の顧客である病院や所属の医師は、MRが提供するサービスの付加価値がさほど高くないという認識をもつようになった」と、オグルヴィ・ヘルス(Ogilvy Health)で最高デジタル責任者をつとめるリテシュ・パテル氏はいう。同社は、オグルヴィ・グループのヘルスケア広告代理店で、クライアントにはファイザー(Pfizer)、ノバルティス(Novartis)、グラクソ・スミスクライン(GSK)、ノボ・ノルディスク(Novo Nordisk)といった製薬および医療機器製造大手が名を連ねる。パテル氏によれば「昨今、疾病によっては治療薬が10種類も世に出回っている」状況で、製薬会社間の競争が激化しており、各社は医師に自社製品の効能を強くアピールするため、ヘルスケア・プラットフォーム内でのターゲティング広告配信といった施策に乗り出しているという。
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医師たちが下す、患者に対し「どの薬を処方するか」という判断に、製薬会社がターゲティング広告を通じて影響力をおよぼす時代が訪れようとしている。なおパテル氏によると、こうした動向の背景にはふたつの要素があるという。第一に、医療費負担適正化を図る、通称オバマケア(Affordable Care Act)の施行で、紙カルテの電子化が奨励されたこと。そして第二に、パンデミック下の感染症対策のため、診療所や病院への出入りが禁止され、対面によるMRの営業活動が難しくなった点が挙げられるという。
需要を喚起する
オグルヴィ・ヘルスの臨床関連事業部門は6月末、ヘルスケア専門のDSP/SSPを提供するアドテクベンダー、ドックケア(Doceree)と戦略的パートナーシップを結んだと発表。識別子となる、医師コードとヘルスケア・プラットフォームへのログイン情報にもとづき、ターゲティング広告を配信できるソリューションを獲得した。製薬会社たちはこれを活用すれば、医師の専門分野や処方履歴に加え、受診中の患者に医師が競合他社の薬剤を処方したか否かといった詳細なデータまでを把握し、活用できるという。
オグルヴィ・ヘルスとドックケアが準備を開始したのは約1年前。これまで、広告配信システムの構築に向けて協業を進め、さまざまなフォーマットのターゲティング広告を、医療機関のEHR(電子健康記録)プラットフォームで配信するためのルール作りにも邁進してきた。
EHRプラットフォームにおける広告配信自体は、新しいものではない。特筆すべきは、ターゲティングと広告効果測定の機能が導入された点である。
ドックケアのプログラマティック広告システムは、ヘルスケア・プラットフォーム運営者や保険・製薬分野のデータブローカーと提携することで、ターゲティング広告の配信を可能にした。医師の処方履歴と現在の行動データにもとづいて、ターゲットが設定され、広告が表示されるといった具合だ。
ドックケアのプログラマティック広告システムは、製薬会社をクライアントに持つある小規模広告代理店で採用され、2021年、運用テストがおこなわれた。目的は、緑内障手術を扱う外科医数百人をターゲットに、近くFDAの承認が下りる見通しの医療機器の広告を配信すること。このプロジェクトを担当したある代理店の幹部は、「影響力のある医師に働きかけて、需要を喚起するのが狙いだ」と語る。テスト結果の詳細と、当該広告システムの今後の利用予定については公表されていない。
なおオグルヴィ・ヘルスは、ドックケア提供のサービスと、自社システムのデータ分析・ターゲティングの機能を併用し、「ある病院に勤務する医師は、受け持った患者をどの専門医に紹介する頻度が高いか」といった情報をも、導き出そうとしている。「当社では、さまざまなデータを組み合わせて活用している」と、責任者のパテル氏は述べた。
広告キャンペーン効果の測定
医師が薬剤を処方する行動を検知すべく、ドックケアは当該の処方に関連する全米医薬品コードなどの情報を自動収集して評価する、Webクローラーを使っている。「医師が医薬品コードをシステムに入力して次の段落に移ると、そのプロセスがページの再読み込みのような役割を果たす」と、ドックケアの創業者兼CEOのハーシット・ジェイン医師は説明する。ページ更新がトリガーとなって、処方候補と競合する薬剤の広告を表示できる仕組みなのだという。
また、製薬会社にとっては、医師が広告に触発されて対象の薬剤を処方したか否かだけでなく、患者が実際に処方薬を購入したか否かのデータ収集も重要だ。そこでドックケアは、コモド・ヘルス(Komodo Health)やシンフォニー・ヘルス(Symphony Health)などのデータ事業者といった提携先から、民間医療保険とメディケア(高齢者と障害者を対象とする米国の公的医療保険)の保険金請求および医薬品購入データを取り寄せている。これを用いて、対象薬剤の新規処方箋数、新規処方医師数などの統計にもとづき、広告キャンペーンが「スクリプト・リフト(script lift:特定の製薬会社の製品がどれだけリフトしたかの値)」にどう影響したかを計測しているのだ。
一方、ドックケアの競合であるディープインテント(DeepIntent)は7月上旬、ディープインテント・アウトカムズ(DeepIntent Outcomes)なるDSP向けの技術で、特許を取得したと発表。この技術を活用すれば、臨床データと広告表示回数データの関連づけにより、医師の処方行動に対するマーケティングキャンペーンの効果をリアルタイムで測定し、最適化することが可能だという。
リスクはプライバシー領域にとどまらない
診療関連データやターゲティング広告と聞けば当然、個人情報保護はどうなるのかという疑問が生じるが、ドックケアのジェイン氏は次のように説明している。「基本的に、我々が患者の個人情報に触れることはない。当社の広告ターゲティングシステムとデータの利用方法は、米国のHIPAA法(健康情報のプライバシー保護法)を遵守している」。
ジェイン氏によると、医師が処方箋を書くタイミングに合わせて広告が配信される際も、患者情報はシステム側に開示されないという。また、「当社が提携しているヘルスケア・プラットフォームの大半は、ログインを必要とするシステムであり、我々が広告を配信する相手は、プラットフォームにログインして配信に同意した医師のみだ」と同氏はつけ加えた。
とはいえ、ドックケアは複数のEHRプラットフォーム運営者と提携しており、個々の条件は異なる場合があり不明瞭だ。
たとえば、ドックケアが提携するEHRプラットフォームの一社である、オフィス・アライ(Office Ally)の例を見てみよう。同社は、ドックケアが、オフィス・アライ製の診療管理・処方ツールを使用している医師や、医師の診察前に、デジタルタブレットを使用してチェックインを行った患者に対しても、診断コードに基づいて広告を配信することを可能にしているという。
オフィス・アライの創業者兼CEOのブライアン・オニール氏によれば、「患者は、診断コードに応じて表示された医薬品の購入に使えるクーポン券の受領に同意すれば、広告表示に同意したとみなされる。患者に対しては臨床試験の知らせなどが配信されるため、希少疾患の患者であれば、そこに参加できる可能性が開かれる」という。
「診療現場の医師をターゲットとするデジタル広告配信は、プライバシーをめぐる重大な懸念をもたらす」と主張するのは、パム・ディクソン氏だ。同氏は医療ID窃盗を含む健康情報プライバシーの問題を中心に扱う非営利研究機関、ワールド・プライバシー・フォーラム(World Privacy Forum)で、エグゼクティブ・ディレクターを務めている。
ディクソン氏によると、ドックケアとオグルヴィ・ヘルスの提携が、プライバシー問題におよぼす影響はいまのところ不明だが、万が一、患者の保険コードなど、電子健康記録にかかわるデータがエージェンシーなどの事業者に流出したり、クレジットカード情報などの決済データが患者の疾患と関連づけられたりする事態が起きれば、HIPAA法に違反する可能性があるという。
オグルヴィ・ヘルスのパテル氏は、米DIGIDAYによるメール取材で次のように述べた。「我々のプログラムは、常に製薬クライアントの社内で学術情報、法務、薬事の各部門の承認を得たうえで実行に移される。個人情報保護の観点からも、何度も審査が行われ、患者の権利とプライバシーを保護するいかなる規則にも違反しないよう細心の注意を払っている」。
しかしディクソン氏の見解では、問題はプライバシーの領域に留まらないという。「EHRプラットフォームで配信される広告が、医療費におよぼす影響も考慮に入れるべきだ。もし、ジェネリック医薬品の15倍から30倍の価格の薬剤が広告で宣伝され、処方が増えたら、医療費にどう響いてくるだろう? これもまた、議論すべき問題だろう」。
KATE KAYE(翻訳:SI Japan、編集:村上莞)
Illustration by IVY LIU