「緊急性を感じている」: メンタルヘルス の福利厚生、米・エージェンシーで流行に

エラーダ・スヴェトラーナ氏は去年まで、精神科医にかかったことはなかった。ストレスと不安が高まったことで、ザ・マーティン・エージェンシー(The Martin Agency)でデザインプロダクションの監修を務める彼女は、同社の従業員支援プログラムを通して、はじめて精神科医の予約を取った。

今回、スヴェトラーナ氏が通院することを決めたのは、最初のセッション4回の料金を同社が肩代わりしてくれるからだ。「体験が終わって気持ちが上向きになった。自分が取り組まなければいけないことに取り組めたという感覚があり、友人にも勧めた。波及効果がある」と、彼女は言う。

その波及効果は、ザ・マーティン・エージェンシーの内にとどまらない。ここ1〜2年のあいだに従業員たちが利用できるメンタルヘルス関連のリソースを増やしたエージェンシーは全米で増えている。ザ・マーティン・エージェンシーもそのひとつだ。リソースの内容はさまざまだが、メンタルヘルスケアや端末を使った遠隔医療、セラピーアプリ(ヘッドスペース[Headspace]、カーム[Calm]、オーム[Om]のような)の有料サブスクリプション、ヨガやオフィス内カウンセラーなどへの支払いを一部補填する傾向にある。ほかの福利厚生として、休暇の追加、出勤時間の繰り下げ、早期帰宅に対する柔軟性の向上、などもある。イレブン(Eleven)、ヴェナブルズ・ベル・アンド・パートナーズ(Venables Bell & Partners)やEPアンドカンパニー(EP&Co)は、勤務中の従業員に対するマッサージ療法、鍼、カイロプラクターといったサービスを提供しているという。

エージェンシーが従業員にこういったメンタルヘルス関連の特典を提供しているのは、彼らのストレスや不安を軽減させることに加えて、エージェンシーのビジネスにとっても助けになると考えてのことだ。究極的にはエージェンシーにとっての商品は人材であり、社内のスタッフへ完全にビジネスが依存している。また、このような対策をすることで、人材確保における大きな危機がさらに膨らむことを避けられるかもしれない。米DIGIDAYがこれまでも報じてきたように、エージェンシーは人材確保の点でテック企業や大手ブランドと競争を展開している。ザ・クリエイティブ・グループ(The Creative Group)が2019年に行った調査では、回答した広告・マーケティング分野のリーダーたちの92%が、技能を持った新規人材の雇用が難しいと回答している。このような事態において、自分たちが抱える従業員を保持し、満足してもらうことはエージェンシーにとって非常に重要となっている。

人材はエージェンシーの資産

エージェンシーに勤務する人の頭には常に、メンタルヘルスが浮かんでいる。最近行われた米DIGIDAYの調査では、回答した147人のエージェンシー従業員のうち17%が仕事で幸せではない、と回答している。同じ調査において、職場でのメンタルヘルスについて心配があると回答した従業員が34%、毎日の満足感にワーク・ライフ・バランスが非常に重要であると回答したのが88%だった。

「手にとって触れるようなプロダクトを作っているわけではない。そして(サービスの)生産側、問題解決やクリエイティビティにはたくさんのメンタル上のストレスが発生する」と、EPアンドカンパニーの従業員エンゲージメント部門ディレクターのジェフ・ハウル氏は語る。「我々にとっての資産は人間だ。人間が仕事の成功と失敗を決める。働く人々の頭の明瞭さ、精神的な安定を維持する方法を見つけることは、業界として非常に重要だ」。

メンタルヘルスケアやウェルネス関連のプログラムへのアクセスを提供することは、ビジネスの向上に直接的に結びつく可能性がある。「我々のスタッフのメンタルヘルスを改善することの意義は、データ上も説得力がある」と、イレブンの人材部門責任者であるハイディ・タグリオ氏は言う。「メンタルヘルス関連、もしくは薬物乱用関連の問題は、ビジネスにとって年間約900億ドル(約9.8兆円)の損失を生んでいる。企業やエージェンシーがそこに積極的に関わる理由がある。また正しいことでもある」。アメリカ国立精神衛生連盟のリサーチによると、心理疾患は米国経済に1932億ドル(約21兆円)の逸失利益を毎年生んでいる可能性がある。

スタンダードな条件になった

従業員のメンタルヘルス関連の問題が原因となって生まれる逸失利益は、あくまで関連福利厚生を向上させるひとつの要因にすぎない。ザンベジ(Zambezi)のCEOであるジーン・フリーマン氏によると、社会的な常識が変わるなか、若い世代の人々は年上の世代よりも自身のメンタルヘルスについて語ることに対する抵抗感が低くなっている。そのため福利厚生の提供を通じて、彼らのニーズに応えることは、どの企業も実施する必要があるスタンダードな条件になった、とのことだ。

アメリカ広告事業協会(American Association of Advertising Agencies:4A)の人材、平等、インクルージョン部門のエグゼクティブ・バイスプレジデントであるサイモン・フェンウィック氏は、エージェンシーの人事部たちはメンタルヘルスを2020年の最重要項目のひとつとしていると語った。「この問題に対応するにあたり、コミュニティ全体で緊急性を感じている」と、フェンウィック氏は言う。オフィス内カウンセリングやセラピーアプリを勧めることは、エージェンシーにとってますます普通のことになりつつあるという。「自分自身のケアをするために時間をとって良いと、エージェンシーたちが言っているのは良い兆候だ。業界の空気が転換しつつある」。

ヴェナブルズ・ベル・アンド・パートナーズの人材部門責任者であるメアリー・ジョンストン氏は、福利厚生の改善で従業員の精神衛生問題に対処する同社の取り組みが、従業員の定着に役立っていると述べた。それでも「従業員が社を離れるときに、それだけで彼らを留めることはできない」と、彼女は憶測している。「しかし、会社からのサポートを実感できてなければ、会社を去っていただろうと人々が言うケースは確実に存在している。若い従業員だけでなく、長期の従業員維持にも役立っている」。

効果を示すデータはない

これらの福利厚生やサービスの幅広い効果に対するデータはない。フェンウィック氏によると、4Aは会員のメンタルヘルス、ウェルネス関連の調査に取り組んでいるという。米DIGIDAYの取材に応じたエージェンシー・エグゼクティブたちは、彼らの個人的な見方では、こういった取り組みがエージェンシーのイメージを良くしており、従業員維持の助けになっている可能性があると語ったが、取り組みの成果を説明する具体的なメトリックスは、いまのところ存在していない。

これらのニーズに対応するにあたり、ひとつの方法に頼りきるのにも慎重になる必要がある。社内エージェンシーで勤務する匿名希望の従業員のひとりは、ヘッドスペースやカームといったアプリを従業員に提供することは、助けになるというよりはビジネス的に感じられることがある、と語った。「人間的要素が欠けている」と、この人物は言う。また社内の人事部は、クライアントに面した業務をしないため、締め切りやクライアントの要求から来るストレスを彼らに説明するのが難しい、とも語った。「自分自身でどうすれば良いかを探らないといけない状況に放っておかれる。人事部に助けを求められると感じられる信頼関係が存在しないため、外部の人々に頼らなければいけない。人事部は(この件に関して)知識を持っていないように思う」。

エージェンシーにとっては、従業員とメンタルヘルス関連の会話をどれほど持つべきか、注意してバランスを取らなければいけない。従業員の個人的な領域にまで入り込みたくはないが、会社が提供しているものは明確にしたいとエージェンシーエグゼクティブたちは言う。

従業員にも心理的な障害が

従業員たちにとっても、メンタルヘルスについて言及することは難しさを伴う。個人情報は守られると約束されていたとしても、自分を雇っている社に対して、特に精神衛生と言ったトピックで真にオープンになることには、心理的な難しさを伴う可能性がある。

「エージェンシーは(メンタルヘルスを)話題にしているし、ドアは開かれた状態だ。人々はそれについて語る必要がある。しかし、どれほどを語って、どれほど(語りすぎることについて)心配すべきか、はグレーゾーンとなっている」と、ザ・マーティン・エージェンシーのアート・ディレクターのひとりは語った。

しかし、すべての関係者にとって、メンタルヘルス問題にどのように対処するべきか見極めることは重要だ。「エージェンシーのマネージャーやリーダーたちは(従業員たちがメンタルヘルス問題を抱えていることを)認識するべきだ」と、前述の社内エージェンシー従業員は語る。「世界でもっとも優れた会社であったとしても、そこの人々が自分のことをどうでも良いと思っていたら、こういった素晴らしい福利厚生の意味はない」。

Kristina Monllos(原文 / 訳:塚本 紺)
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