ジェイ・ウォルター・トンプソン(JWT/J. Walter Thompson)のワールドワイドチーフクリエイティブ・オフィサーであるマット・イーストウッド氏は、多くの広告会社と3カ国に渡るキャリアを築いたあと、2014年7月にJWTへ入社した。今回は自身の言葉で、これまでに得た最大の教訓をシェアしてくれる。
ジェイ・ウォルター・トンプソン(JWT/J. Walter Thompson)のワールドワイドチーフクリエイティブ・オフィサー、マット・イーストウッド氏は広告業界に入った20年以上も前、アートディレクターとしての仕事を見つけることができなかった。
しかし、最終的にクリエイティブの部門に進むことができ、多くのエージェンシーと3カ国に渡ってキャリアを築いている。M&Cサーチ(M&C Saatchi)のロンドン本社に勤め、M&Cサーチオーストラリア設立にひと役買ったあと、DBBオーストラリア(DDB Australia)に採用された。彼がJWTに入社したのは2014年7月。
今回は自身の言葉で、どのような経緯でこの業界に入ったのかを語り、これまでに得た最大の教訓をシェアしてくれる。
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「若くして、やりたいことを知ったのは幸運だ」
かなり若くして自分のやりたいことを知ったことは、とても幸運だと感じる。それは、「奥さまは魔女」(1960年代の米コメディドラマ)の主人公・サマンサの夫であるダーリン・スティーブンスン(広告代理店勤務でコピーライターという設定)と関係がある。13歳にして、彼の仕事はすごいと感銘をうけたことを覚えている。広告業界は本当に楽しく、魅力的なキャリアのように見えた。
しかし、それは簡単な選択ではなかった。学校の得意科目はいつも美術と算数。父は会計士だったので、私に自分の会計事務所を引き継いでもらいたがっていた。16歳のときに父が私にいったことを覚えている。それは、広告に誰も投資しないという話だった。その時点で、真剣に考慮するべきキャリアオプションとはまったく見られておらず、父は私にもっとしっかりした職業に就くことを望んでいた。
しかし、皮肉なことに20年のあいだに、会計に関わらないわけにはいかなくなった。いまでは私はビジネスを営んでおり、会計はビジネス感覚を養うのに役に立っている。
「オーストラリアで育ったことの利点を実感した」
2000年から2004年までロンドンに住んでいたとき、オーストラリアで育ったことの利点を実感した。ほかの場所でクリエイティブな仕事をしている人々は、いつもクライアントから保護されていることを認識した。彼らはクライアントに目を向けていなかった。彼らはエージェンシーのなかでアイデアを生み出しているだけだった。しかし、オーストラリアではクリエイティブは、ブランドやそのCEOとの交流を頻繁におこなっていた。このような環境のなかにいたおかげで、難なくエグセクティブと話をしたり、アイデアのプレゼンをすることができた。
我々は、より少ないリソースでやり繰りする必要もあった。自分がパースのFCBで働いていた頃を振り返ると、我々にはTVプロデューサーというポジションはなかった。クリエイティブはTVプロデューサーとしての役割も果たさなくてはならない。結局、これらのスキルのすべてを取得し、長い目でみるとそれらは本当に役に立っている。より大きなマーケットに行ってしまうと、こうしたぜいたくは許されない。
2000年を迎える少し前に、私がはじめてニューヨークに来たとき、制作費が100万ドル(約1億円)に少し足りない金額のキャンペーンに取り組んでいたことが思い出される。そのクリエイティブディレクターは私にこういった。「ああ、100万ドルしかないなんで、何をやっていいかわからない」。それを聞いて私は驚いた。多くのオーストラリア人が広告エージェンシーの経営でなぜこんなにも成功しているのか、最大の理由の一部がそこであると私は考える。
「私はいつも次は何かを考えてきた」
私は居心地の良い場所を飛び出して、自分のすべてのキャリアに時間を費やした。23歳のとき、パースからシドニーに移った。ロンドンに移ってM&Cサーチを引き継いだときは弱冠32歳で、かなり物議を醸した。私に対してあまり好意的ではない記事が書かれ、もっとも象徴的なエージェンシーのひとつをどうしてオーストラリア人に任せるのかを問うキャンペーンが展開されたことを思い出す。
しかし、こうした出来事は私のやる気をさらに高めただけだった。私はいつも次は何かを考えてきた。グローバルな役割を担い、さまざまな国や地域で仕事ができることは貴重な体験だ。また、その多文化的な洞察をグローバルなビジネスにもたらせることは、大きな資産だ。
私がもっとも不調だったとき、それはおそらく、はじめて解雇されたときだろう。私は23歳でパースのオグルヴィー(Ogilvy)に勤めていて、順風満帆だった。ところが、あるときCEOのオフィスに呼ばれ、解雇された。精神的にとても打ちのめされ、もちろんひどく動揺した。そのエージェンシーが破綻し、閉鎖されることを知ったのは数カ月もあとのことだ。彼らはただ私に便宜を図ろうとしていたのだということを知った。
「今年のマルティネス騒動も大変だった」
グスタボ・マルティネスに関連した今年の騒動も大変だった(JWTのCEOだったマルティネスは、人種差別および性差別的なコメントに対する申し立てを受けたあとで辞任した)。それは非常に残念でもあった。
皮肉なことに、我々はそれが起こる約2日前に、ドバイ・リンクス・フェスティバル・オブ・クリエイティビティで「ネットワーク・オブ・ザ・イヤー」を獲得したばかりだったからだ。うまくいったことを実感していた。クリエイティブにマイルストーンを達成したのだと。
そして、すべての騒動がはじまり、人々の注目は別の所に行ってしまった。これには本当に失望した。マルティネスの騒動よりも、我々の勝利について人々が話題にすることを私は願っていたのだ。私的な面でも残念だ。というのも、彼と私は非常に親密だったからだ。業界での我々のポジションをはっきりさせるのには、とても長い時間がかかり、あの騒動のあとで、士気を上げることは難しかった。
「情熱は才能に勝ると確信している」
2016年のカンヌは、我が社にとって大きな成果だったが、自分にとっても大きな個人的な旅路となった。多くのプロジェクトや実務に私は直接関わっていた。このエージェンシーの全従業員を、そして達成すべきことが達成できたことをとても誇りに思う。それは間違いなくキャリアにおけるひとつのハイライトだ。しかし、それにより私たちの仕事に再び注目が集まるようなったことも、素晴らしいことだった。
情熱は才能に勝ると私は確信している。その哲学は、才能はコモディティであり、世界には才能のある人がたくさんいるということに基づいている。しかし、人を前へと駆り立てるのは情熱だ。一度落ち込んでしまうと、情熱なしに再び立ち上がり、進み続けるのは困難だ。私のキャリアにもそうした場面がある。たとえば、私がやめることを考えたときは、情熱をもてない責務が理由だった。けれども、情熱があれば、ネガティブな意見を気にかけないでいられる。