怒濤の勢いでロックダウンに突入した結果、緊急事態への対応が、ほぼそのまま新しい日常となった。上司は部下と過剰にコミュニケーションしたがり、中間管理職は不安に駆られ、ついには暴君と化したSlackの赤いドットが多くの犠牲者を出している。「私たちの日常は一夜にして一変した」。
シンガポールでユーザーエクスペリエンスの開発に従事するアンディ・チャン氏は、朝の洗顔中、スマートフォンの画面ロックをわざと解除したままにしている。そうしておけば、Slackのアバターアイコンの隣に表示される小さな緑色のドットが黄色に変わることはない。つまり、彼は「そこにいる」ことになり、本当はどこにいるのか誰にも分からなくても、彼が「そこにいない」とは言えなくなる。文章投稿サイトの「Medium(ミディアム)」へ、この6月にチャン氏が寄稿した記事に、これと似たような一節が出てくる。
「あれは確かに私のことだ」と、この記事のための取材でチャン氏は認めた。「状況はいまも変わらない」。
数百万人のリモートワーカーたちが公私の線引きに頭を悩ませ、子どもたちを託児所に預け、Slackのようなデジタルツールを駆使して「自分はそこにいる」とアピールする時代に、チャン氏の話はまさに「リモートワークあるある」だ。全米経済研究所(National Bureau of Economic Research)の調べによると、コロナ禍に見舞われて以降の勤務時間は48時間長くなり、会議の回数も電子メールの送信件数も増えている。出社とリモートのハイブリッドが「未来の働き方」の主流となるなら、この現実は(そしてそのデメリットは)ただ深刻化するだけだろう。
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「トイレに行くにも許可が要るように感じる」と、「進歩的な」テクノロジー企業のある上級管理職者は嘆く。
怒濤の勢いでロックダウンに突入した結果、緊急事態への対応が、ほぼそのまま新しい日常となった。上司は部下と過剰にコミュニケーションしたがり、中間管理職は不安に駆られ、ついには暴君と化したSlackの赤いドットが多くの犠牲者を出している。
「私たちの日常は一夜にして一変した」。リモートワークのコンサルタントで「ヘルシー・ハッピー・ホームワーキング(Healthy Happy Homeworking)」シリーズの著者、マヤ・ミドルミス氏はそう語る。「従業員をリモートワークに移行させる場合、私たちが一番最初にやることは、作業の状況を可視化して、いちいち言葉で説明する必要を取り除くことだ。問題の多くは中間管理職の不安から生じている。在宅勤務に移行しても彼らが生産性に責任を負うことに変わりはない。そしてこれまで、彼らは『この人は忙しい』とか『この人は誰よりも早く出社する』などの代替的な指標で部下の生産性を評価してきた」。
複数の人が入力中
デジタル時代あるいはSlack上でのプレゼンティーイズム(もともとは「体調不良でも出社すること」をいい、しばしば「疾病就業」の訳語が充てられる)はいまに始まった現象ではないが、物理的な本社を持たない未来型のチームコミュニケーションと企業文化が再構築されるなかで、改めて浮き彫りにされた形だ。従業員の生産性と献身は週に1度のバーチャル飲み会に5週間連続で参加しているなど、彼らの職務には適合しない代替的な指標で評価されるようになっている。
「Slackは現代のパノプティコンになりかねない」。そう指摘するのはコンシューマインサイトエージェンシーのキャンバスエイト(Canvas8)に上席社会学者として籍を置くミラ・コポロビック氏だ。パノプティコンとは中央に全方位監視塔を持つ円形刑務所のことである。「上司に監視されているのか否か本当のところは分からない。監視されている可能性もあるが、上司が部下のログオン状態を四六時中確認しているとは到底思えない。それでも皆、Slackのログオン表示を常にアクティブにしておく必要を感じている」。
コロナ禍中、管理職者にはリモートワーク本来の柔軟性を推進するよりも、オフィスにいるのと同じ形の規則性を再現することが求められた。それは活力と生産性を削るばかりでなく、相互信頼の醸成にもほとんどまったく役に立たない。
「私が勤務する会社はコアの勤務時間を決めたのだが、私は夜型で、生産性のピークはその時間帯に当てはまらない」とチャン氏は語る。当面は、早めに起きて、早めに仕事に取りかかるようにしているという。勤務時間の設定は従業員がオフィスに出社するかぎりにおいては有効だろうが、仕事と家庭の境界線が薄れるほど、その通りに働くことは困難になる。
「家で仕事をするというよりも、仕事と暮らすという感じだ」。あるエージェンシー幹部はそう語る。いまだ収束しないコロナウィルスの脅威にもかかわらず、この幹部は来週再開する出社が待ち遠しいという。
「仕事と私生活の区別がなくなると、仕事でもプライベートでも自分の義務を果たしているという達成感が得られにくい」とキャンバスエイトのコポロビック氏は指摘する。「ロックダウンが始まってまもなく、家の外での生活が基本的に禁止されたため、誰もが常に家に居るようになり、バーチャルな出社や出席を求める複雑な義務が新たに生まれた」。
不本意な在宅勤務者たち
就職したばかりの若い世代は、将来的には柔軟な働き方からもっとも大きな恩恵を受けるが、いまのところは一番の貧乏くじを引いている。パソコンなどの備品も揃わず、一軒家で他人と共同生活しているような状況なら、問題は山積みだろう。物理的に出社しない環境で、仕事の進捗を見せる必要は常にもまして重大だ。
ミニ・ゲイン氏はグローバルな映像制作会社のスティンクフィルムズ(Stink Films)で助監督として働いている。イーストロンドンのウェアハウスで他5人と共同生活をしているが、いま現在、9時5時で働いているのはゲイン氏ただひとりだ。
「月曜朝に開かれる部門会議は任意参加だが、出席圧力を感じる。私の出席などまったく必要ないのに」と、ゲイン氏はぼやく。「みんなの顔を見るために出席しているが、いつも何も発言しないので、場違いな家具にでもなった気分だ。一体感どころか疎外感すら感じる。この会議に出席しても良いことなど何もない」。
このような出席圧力は往々にして言葉によらない無言の圧力で、その分いっそう陰湿で対応が難しい。ゲイン氏は先週、休暇を取ったためにこの会議を欠席した。そして、その欠席は出席者に知らせれた。「出席へのプレッシャーを感じる」と、同氏は言う。「そうでなければ体調や近況を訊かれたりなどしない」。
「在宅勤務に消極的な人が増えている」と、ミドルミス氏は語る。「以前はオピニオンリーダー的な人たちが積極的に推奨するポジションだったが、いまは多くの人が適切なスペースも設備もなく苦労している。そのうえに暴君のようなSlack通知が心の平安をかき乱す。生産性どころの話ではない」。
会社が正社員に対して果たすべき責任は、年齢や地位にかからわず、彼らの自宅に冷水機を設置するとか、パソコンなどの備品を支給するなどでは済まされない。
「気がつけばパジャマやトレーナーのまま外に飛び出している」と、ゲイン氏は言う。同氏の住まいは最上階で、ほとんど毎週インターネットの接続障害が起きる。「このままでは納期に間に合わないと半狂乱になりながら、スマホを片手にまともなWi-Fi接続を探しまわる。これはもはやミッションかアドベンチャーだ。そうでなければコメディだ」。
LUCINDA SOUTHERN(翻訳:英じゅんこ、編集:長田真)