「何を恥ずかしいと感じるか、何を評価するか」は、人によっても、時代や世代によっても、異なる。あるいは、地域や文化によっても異なる。しかし、そういう基準や思想の相違が、社会を変革するエネルギーにもなるのだ。「Flight Shame(飛び恥)」は、そのことを示唆しているように感じる。ーー有園雄一氏による寄稿。
本記事は、zonari合同会社 代表執行役社長/アタラ合同会社 フェローの有園雄一氏による寄稿コラムとなります。
「とても恥ずかしいことなんですが、失点がなければ、役員まで出世できてしまうんです。平成の失われた20年(あるいは30年)は、そういう時代でした」。
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東京・白金台の閑静な住宅街に「NEC泉華荘」という施設がある。8年ほど前だったと思うが、その泉華荘に招待された私は、NECの役員の方と会食をした。役員の方以外にもNEC社員が3名ほど一緒だった。
その役員の方から「どうですか、うちの社員は?」と質問され、私は、できるだけ率直に、意見を述べた。
「何でも反対するネガティブな人がいて、プロジェクトが滞ってしまいます。あるいは、曖昧な回答で保留されてしまい、話が進まない。彼の目的は、新規プロジェクトを潰すことなんじゃないか?」と。その役員の方とは、すでに何度か会食をしていて、比較的気軽に意見を交わさせる関係になっていた。
当時、ネット広告業界でDSPやDMPが台頭していた。その流れに便乗して、携帯キャリア会社が所有する個人データを活用すれば、GAFAにも対抗できるDSPやDMPを構築できるのではないか? そんな期待があった。あるいは、通信事業からライフデザインやスマートライフ事業への転換が叫ばれ、回線単位になっていたDBを、顧客・会員単位に変更したいというフェーズに入っていた。NECが開発を受託したかどうかはわからないが、「SoftBank Ads Platform」や「auライフデザイン」などのサービス基盤となるシステム開発をするのが、当時の目的だった。
そこで、たまたま、ネット広告業界にいる私もお手伝いすることになり、プロジェクトの進捗報告も兼ねて、会食の席を設けていただいたのだ。
「とても恥ずかしいことなんですが」と彼が発したとき、文字では表現できない「言霊」のような音波を、私は、ビリビリと感じた。
人にはそれぞれ適性があって、「0を1にする人」「1を10にする人」「10を10できちんと回す人」がいる。彼は、必ずしも、NECの文化がネガティブだと言った訳ではなかった。平成という時代は、昭和の成功体験の延長で、そのまま収益性の高い事業を引き継ぎ、「10を10できちんと回す人」が評価された。儲かる事業をきちんと失敗なく失点なく回せる人が、役員になった時代だった。だから、その影響で、新しいプロジェクトに対して、本能的にネガティブになってしまう人がいる。彼が言いたいのは、そういうことだと思った。
きっかけは、NECの話だったのだが、彼の目線は、日本全体や自らの世代の責任論に移行し、平成の日本経済を担った世代として自責の念を吐露した。つまり、昭和の成功体験に依存してきたことへの反省、果敢に新規事業にチャレンジすべきだったという教訓、「0を1にする人」をもっと評価する制度が必要だという自戒。
平成の失われた30年を自己批判的に背負って、「とても恥ずかしいことなんですが」と語気を強めて語っているように見えた。
収益の高い事業があるなら、無理にリスクを取って新規事業をする必要はない。「10を10できちんと回す人」が評価されてもおかしくはない。失点の少ない人がそのまま役員になったとしても、100%悪いことだとは思わない。だから、私からすると、そんなに「恥ずかしい」と思う必要ないのでは? と思った。
たが、彼は違った。昭和から平成に移行して、日本経済が徐々に低迷していくなかで、その評価基準やシステムを、もっともっと、変化させるべきだった、という意見だ。
その役員の方は、私と違って、とても責任感が強く真面目なのだ。
そして、生きてきた時代も、世代も違う。つまり、「何を恥ずかしいと感じるか、何を評価するか」は、人によっても、時代や世代によっても、異なる。あるいは、地域や文化によっても異なるだろう。そういうことだ、と思った。
「飛び恥」ムーブメント
いま、「Flight Shame」(飛び恥)というムーブメントが起こっている。「航空業の気候変動への影響の大きさから、飛行機に乗ること(=環境破壊に加担すること)を恥とし、鉄道など他の移動手段をすすめる新語」(参考)だ。日本では、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリ氏の話題とともに「Flight Shame」という言葉も広まった。
日経の記事「先進国『飛び恥』じわり 環境意識、飛行機手控え」には、「スウェーデンの国営空港運営会社によると、1~9月の国内線の利用者数は前年同期より約8%減少した。同社は景気減速に加え、気候変動を巡る議論を要因にあげた」とある。
つまり、それなりのインパクトがあるようなのだが、率直に言って、私は「おっと! Shame(恥)という単語を使ったのか」と戸惑った。まさに、生きてきた時代も世代も地域も文化も異なる。欧米の環境活動家には申し訳ないが、海外に行くときは、必ず飛行機を使っている。彼らの主張は理解できるけれども、いまの日本の条件だと実行するのは難しい。
しかし、「何を恥と感じるか、何を評価するか」という基準や思想の相違が、社会を変革するエネルギーにもなるのだ。この「Flight Shame」は、そのことを示唆しているように感じる。
もしかしたら、NECの役員の方は、もっと早くから「恥ずかしい」と気づくべきだった、と言いたかったのかもしれない。昭和の成功体験に依存するのは恥ずかしことだ。そういう感覚をもっと早い時期に持っていれば、と。だから、「とても恥ずかしいことなんですが」と彼が発したとき、「言霊」のように私の心に響いたのではないか。それは、まるで、「同じ轍を踏まないで欲しい」と、私を諭しているようだった。
もっと想像力を働かせて、異なる価値観の人々にも配慮し、自分たちのビジネスの基準や思想の適正を、常に検証していく。もし、恥ずべきところがあったとしても、今回の「Flight Shame」のように、日本人の価値観や条件では、すぐに変更できないこともある。それでも、いつも、想像力を働かせて、検証していくことが大事だ。
アインシュタインが「想像力」について、次のように述べている。有名な言葉なので、知っている人も多いだろう。
「Imagination is more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world.」
(想像力は、知識よりも重要だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む)
「It would be a shame!」
ところで、私は、昨年の記事「2019年は、Googleの凋落の始まりの年になる」のなかで、GDPRの施行日(2018年5月25日)にヨーロッパで、Google批判を聞かされたことを書いた。
それは、主に、個人情報を勝手に使っていることへの批判と、法人税をきちんと払っていないことへの批判だった。そして、この流れは日本にも来ると書いた。
「クッキー情報での個人特定防止へ 利用者同意義務付け」という日経の記事にあるように、「政府の個人情報保護委員会は <中略> 企業が『クッキー』と呼ばれるウェブ閲覧情報を、個人の分析に使う他の企業に提供する場合に、本人の同意を取ることを義務付ける」方針とのことだ。個人情報保護法は今年改正される。
また、2019年12月23日付で「米IT広告収入、日本で計上へ」という記事を共同通信が掲載している。記事によると、GoogleもFacebookも、Amazonの後を追うように、「日本の広告事業の売上高を日本法人に直接計上する方針」に転換し、「法人税納付は増える見通しだ」とのことだ。
実は、GDPRの施行日に、ヨーロッパでGoogle批判を聞かされたとき、「It would be a shame!」(それはちょっと恥ずかしことかもね)と、子供を扱うように、私はたしなめられた。私が元Google社員だと伝えたうえで、「Googleの社員には、悪意はない。クッキーなどで収集した個人情報は利便性を高める目的で使っている」「国際的な租税法の枠組みによって、税金は合法的に処理している」など、延々と反論したときだった。
「It would be a shame!」は、グサッと心に刺さった。
あまり説明は要らないと思うが、他人の行動履歴や閲覧履歴をいつの間にか収集して、それをターゲティング広告に使ってお金を稼ぐ。それは恥ずかしいことだよ、と。あるいは、合法的か否かの問題ではなく、社会の一員として適正な納税をする。特に福祉国家の北欧などでは、適正な納税をすることが正義のような感じだった。
Googleで働いたことを誇りに思うことはあったとしても、「Shame」(恥)だと思ったことは、なかった。いまでも、もちろん、恥だと思ってはない。だが、しかし、だからこそ、ショックなのだ。
国連気候行動サミットでのグレタ・トゥーンベリ氏の怒りのスピーチ映像は、GoogleをはじめとするGAFAを批判するヨーロッパ人の印象と重なった。彼らは、私と違って、とても責任感が強く真面目なのだ。
先ほども書いたが、NECの役員の方も、私と違って、とても責任感が強く真面目なのだ。NECの役員の方と会食したのは8年前。私は、そんなに「恥ずかしい」と思う必要はないのでは? と思っていた。そして、いま、元Google社員であることを、そんなに恥ずかしいことだとは思っていない。だが、「It would be a shame!」と諭してくる人もいる。
「同じ轍を踏まないで欲しい」というNECの役員の教えを思い出すとき、もっと想像力を働かす必要があるかも知れないと感じている。想像力を働かせて、異なる価値観にも配慮し、自分たちのビジネスの基準や思想の適正を、常に検証していく。
デジタル広告業界は、DSPやDMPの台頭以降、データドリブンという発想が定着している。だが、そもそも、そのデータドリブンな手法でターゲティングされる側の人たちの気持ちまで、深く考えてきただろうか。ウンザリするリターゲティング広告に嫌気が差す。そんな体験は誰にでもあるはずだ。データドリブンというビジネスの基準や思想は、適正なのか? 検証の余地がある。そんな時期にきているのではないか?
「Society5.0」の到来
個人情報保護の流れは、ヨーロッパのGDPRに端を発し、アメリカのカリフォルニア州CCPA(2020年1月から施行)に波及した。そして、先にも触れたが、今年は、日本でも個人情報保護法改正を控えている。この適用範囲は、デジタル広告業界や大手IT企業だけではなく、当然、すべての企業、すべての業界を対象にしている。
今後、AIやIoT、5Gなどの普及で、日本政府は「Society5.0」を実現したいと掲げている。「Society 5.0で実現する社会は、IoT(Internet of Things)ですべての人とモノがつながり、さまざまな知識や情報が共有され、いままでにない新たな価値を生み出す」ことで、少子高齢化や地方の過疎化、貧富の格差などの課題を克服していく、らしい。つまり、IoTで社会全体が接続され、多種多様なデータが流通していく可能性がある。
おそらく、データの流通量と適用範囲が幾何級数的に拡大していくとき、一般の生活者も、データについてより身近な自分ごととして考え、かつ、ヨーロッパ人のように敏感になるのではないか? たとえば、いわゆる「リクナビ問題」のような事件が発覚したら、プライバシー意識の低い「恥ずかしい」企業だと判断される。そんな気配を感じている。同様に、ウンザリするリターゲティング広告の配信を続けていると、敏感になった生活者からますます拒絶される可能性がある。
拒絶されると、どうなるか? 今後は、個人情報保護法の改正によって、個人が企業に自分のデータ利用をやめさせる「使わせない権利(利用停止権)」を行使できるようになる。ひとりやふたりのユーザーが「利用停止権」を行使するぐらいなら問題ないかもしれないが、仮に何らかの不祥事によって事件になり、ほとんどのユーザーが「利用停止権」を行使したら、その企業はビジネスできなくなるのではないか?
つまり、生活者や顧客、あるいは、ユーザーに、「より良い体験」を提供していく必要性が増すことになる。ウンザリするような広告や、本人の許諾も取らずに内定辞退率を販売するのは、裏切り行為に等しく、「良いユーザー体験」とは言い難い。今後は致命的になり得るのだ。なぜなら、個人情報保護法改正によって、個人データの主導権がユーザー側に移るからだ。
さて、そのとき、どうするのか?
ことは、デジタル広告だけの問題ではない。「Society5.0」の到来によって、ほぼすべての企業が対象になるし、おそらくは、電子政府立国・エストニアのGaaS(Government as a Service)のコンセプトを考慮すると、国や地方の行政機関も巻き込んで、すべての組織がより「良いユーザー体験」の提供のために、努力する必要が出てくるのではないか? つまり、日本社会全体の問題に発展していく。
いまこそ「UXインテリジェンス」を
2018年のGDPRの施行日に合わせて、ヨーロッパに視察に行ったのだが、その際に回ったのは、フィンランドとエストニアだった。フィンランドでは、MyDataのコンセプトについて講義を受け(MyDataのコンセプトがGDPRに大きく影響したらしい)、その後で、エストニアの電子政府を視察するというツアーだった。そのとき、たまたま、一緒に回ったメンバーの一人に、ビービットの取締役副社長、中島克彦さんがいた。
私は、昨年の夏、たまたま、中島克彦さんと打ち合わせをしていたら、同じツアーに参加したからだと思うのだが、ほとんど同様の問題意識を持っていて、すでに資料をまとめ始めているとのことだった。
「有園さん、これからは、『UXインテリジェンス』が大事になると考えているんです」と中島さんは言った。
「UXインテリジェンス」とは、おそらく、UX(User eXperience:ユーザー体験)を、正しく、より良く改善していく能力を意味している(参照:「UXインテリジェンス – アフターデジタル時代のデータ活用スタンダード」)。
あるいは、昨年末に、スケダチ 代表/社会情報大学院 特任教授 高広伯彦さんとの対談記事がMarkeZineに掲載されたのだが、高広さんも、まったく同じ言葉「インテリジェンス」を使った。該当箇所を引用する。
「データが単なるデータではなく、顧客体験(CX)と結びついたときにインフォメーションになり、全体として『インテリジェンス』になる。そうすると、CX改善に活用し得るものになると思う。残念ながら、今はそうなっておらず、企業目線、広告主目線になっているから、特にデジタル広告は顧客目線で見ると崩壊している」。
つまり、顧客体験やユーザー体験を改善するには、単なるデータドリブンな発想だけではなく、「インテリジェンス」が必要なのだ。中島さんと高広さんは、この点で一致している。
そして、NECの役員の言葉を思い出すと、「とても恥ずかしいことなんですが、『UXインテリジェンス』の重要性に気づくのが遅くて」とならないようにしたい。
データや知識だけではダメなのだ。アインシュタインがいうように、「想像力は、知識よりも重要だ」。2020年は、ユーザー体験全体を俯瞰できる想像力を研ぎ澄まし、「UXインテリジェンス」を身に付けていく。そんな年にしたいものだ。
Written by 有園雄一
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