メディアが平準化するいま、我々はなにを考えるべきか?:これは大きな問題だ

本記事は、ピュブリシスメディア(Publicis Media)傘下の企業、ゼニス(Zenith)の副社長(EVP)でありイノベーション部門長のトム・グッドウィン氏による寄稿となります。

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2017年3月の第1週、Facebookがサムソン(Samsung)とパートナーシップを組んでテレビアプリを、さらにGoogleが「YouTube TV」をローンチした。これはテレビにとって何を意味するのか? またテレビ以外のチャンネルにとって、どのような影響をもたらし得るのか?

我々の業界は、いつも分断してきた。新聞広告から野外広告、テレビ広告からシネマ広告、そしてトラディッショナルからデジタルへだ。ソーシャルが来たかと思えばモバイルへのシフトと、我々は次々に新しいバーティカルなサイロを作ってきた。

しかし、各デバイスがなんでもできるようになると、いままで機能によって分断されてきた境界線が歪み、曖昧になる。ラジオとストリーミングサービス然り、テレビと動画然りだ。

Twitterはスポーツのライブ配信を開始し、Appleはラジオステーションをもつ。YouTubeは2000チャンネルを通して、100万人以上のサブスクライバーを擁しており、Facebookは疑いようもなく一夜にして最大のTVチャンネルになろうとしている。紙のパブリッシャーがSnapchat(スナップチャット)への予算投資に偏重するなか、AmazonはEcho(エコー)という目新しいチャンネルを生みだした。目まぐるしくメディアが変化している。

メディアが変化しているということは、我々も当然思考を変えていかなければいけない。分断して考えるのではなく、横に繋がっていくことを考えないといけないということだろう。

この記事では、いままで我々はどのようなメディア環境にいたのか、そして、これからどのようにデジタル環境へと移行していくのかを考える。

複数のバーティカルチャンネル:デジタルの幕開け

メディアと広告がはじまって以来、メディアはチャンネルとして認識されてきた。これらチャンネルは限られた単位の集まりであり、分離した事業体であり、そして、物理的なデバイスのもとに名付けられた。たとえば、テレビ塔をもつテレビ局またはケーブルテレビ局が提供する放送チャンネルから、テレビ局の人間が選定したテレビ制作会社によって作られた番組を観る、といった感じだ。

ラジオの場合、ラジオの電波を送受信する電信柱から放送されるラジオ番組をラジオ広告とともに聴く、といった具合だ。新聞であれば、新聞記事の編集者、その新聞の発行元、新聞記者、そして新聞広告というふうに分断されている。そして最後に、雑誌と屋外広告は徹底的な分断を生みだした。

増加するバーティカルチャンネル:デジタル時代の黎明期

インターネットが生まれたことでバーティカルチャンネルが一層増えた。

デジタル以前のメディアの構造と機能は、ISPやポータルサイト、ウェブ編集、デジタルメディアのジャーナリスト、フォトグラファーという風に、インターネット上で分断されるという仕組みに入れ替わった。それにともない、デジタル広告とデジタルエージェンシーも生まれた。

Facebook、Twitter、インスタグラムやその他SNSが大衆化したことで、ソーシャルメディアが新しいチャンネルになった。コンテンツを共有することに価値があるという、新しいチャンネルを習得するため、インフラを整備し、ソーシャルメディアの役割と戦略を考えた。そして、モバイルアプリ、モバイル広告、モバイルアドネットワークが生まれ、モバイル戦略からモバイルコンテンツを作るモバイルジャーナリストが誕生した。

横への繋がりへのパラダイムシフト:デジタル時代のあと

これらチャンネルはとても魅力的だったが、同時に現実の世界を無視し、デジタルデバイスの機能を一挙に集約させてしまった。スマートフォンで雑誌を読み、タブレットでテレビ番組を視聴し、テレビでVimeoの動画を観て、Echoでラジオを聴くことで、デバイスが従来のメディアチャンネルどおりの意味をほとんど成さなくなってきたのだ。

「モバイル」「ソーシャル」という言葉がひとり歩きしているが、そもそもすべてのデジタルメディアは、シェアラブル(共有可能)でソーシャルだ。また基本的に、デジタルであればモバイルからのアクセスが可能で、その逆も然りのため、あまりその言葉自体に意味はない。

無自覚にYouTube上のテレビ番組をスワイプしている5歳児に、それがテレビではないことを自覚させるにはテクニカルな説明が必要になるが、ほとんど意味のないことだろう。そして、VR、ウェアラブル、カータブレット、スマート冷蔵庫やEchoやSiri(シリ)の台頭など、我々はまったく新しい柔軟な考え方を求められている。

こうした思考の変化をベースに、我々は過去のメディアの在り方について再考すべきときにいる。そこで再考すべき要素が以下だ。

コンテンツメーカー

テレビ v.s 動画という考え方は、もはやナンセンスだ。「Webジャーナリズム」「紙のジャーナリズム」「モバイル」というふうに切り分けることも古臭い。新しいメディア環境においては、コンテンツメーカーについてのみ考えるべきだ。コンデナストやニューヨーク・タイムズ、BBC、NFLなどのプレミアムコンテンツメーカーもいれば、レコードレーベル会社だけでなくSnapchatやTwitterのインフルエンサーも含まれるだろう。もっとも重要なことは、我々が見たいコンテンツであるということだ。

パブリッシャー

パブリッシャーはもはやコンテンツを制作し、キュレートし、束ね、配信する立場ではない。パブリッシャーは多くのオーディエンスをもつ、カスタマーインターフェースでしかない。Netflix、Amazon、Facebook、Twitter、Googleなどがトップパブリッシャーグループにあたる。古参のテレビ局や雑誌社、新聞社は、彼らのオーディエンスとの関係を途切れさせないために戦い、単なるコンテンツクリエイターではなく、質のあるコンテンツ制作も求められている。

データ

分断のないメディア環境のなかでは、個人がより拡大されて詳細なデータが取れるようになった。モバイルデバイスは個人を特定し、どこにいて、どこに訪れる傾向があるのかを把握している。天気予報、ニュース、ユーザーの最近のブラウザ履歴、傾向なども把握されているのだ。テレビも個人を特定し、視聴している番組を把握するようになり、個人のほかのデバイスから個人データを蓄積するようになるだろう。

そう遠くない未来では、いま観ている番組などのコンテンツに広告が付随することなく、もっとローカルなレベルで、個人の最適なタイミングに合わせて、コンテンツとは解き放たれた形で見られるようになるだろう。複数のデバイスで見られているコンテンツを総計し、明確なユーザーのプロファイルを設計できるプレーヤーがより関連性のある的確な広告をターゲットできるはずだ。

我々は広告とマーケティングについて再考せねばならず、コンテンツを消費する人々のリーチを得るためだけに、メディアバイイングをすべきではない。リーチ拡大のためのメディアバイイングはやめて、次のふたつのことに集中すべきだ。誰に我々はリーチしているのか、そして、もっと注視すべきは、いつ我々はリーチしているかだ。

TOM GOODWIN(原文 / 訳:中島未知代)